第123回 Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア

Goh Hotoda 氏
プロデューサー / ミックス・エンジニア
Goh Hotoda 氏 プロデューサー / ミックス・エンジニア
 今回の「Musicman's RELAY」は、(株)Zeppライブ、(株)バックステージプロジェクト / 代表取締役 杉本圭司さんからのご紹介で、プロデューサー / ミックス・エンジニアGoh Hotodaさんのご登場です。芸術家のご両親のもとに生まれ、日本 / アメリカを行き来しながら学生生活を送ったGoh Hotodaさんは、シカゴでキャリアをスタートし、シカゴ・ハウスの黎明期に立ち合います。その後、ニューヨークへ移られてからは数々の有名アーティストのリミックスを手掛けられ、マドンナの『VOGUE』へ結実。その後も、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルなどの作品を手がけ、トータルセールス5800万枚以上、2度のグラミー賞受賞など世界的に高い評価を受けています。熱海のご自宅兼スタジオへお邪魔し、たっぷりお話を伺いました。
[2014年7月7日 / ご自宅兼スタジオにて]
プロフィール
Goh Hotoda(ほとだ・ごう)
プロデューサー / ミックス・エンジニア

1960年生まれ。東京都出身。シカゴでキャリアをスタートし、1990年マドンナの『VOGUE』のエンジニアリングを務め、今ではポピュラーとなったハウス・ミュージックの基盤を作った。 その後ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルなどの一流アーティストの作品を手がけ、トータル5800万枚以上の作品を世に送り出す。2度のグラミー賞受賞作品など世界的にも高い評価を受けている。
仕事を通じ10年来の付き合いのあった『REBECCA』のNOKKOと2001年に結婚。『NOKKOandGO』を結成。
現在は日本国内にICON D-Control システムをベースとするスタジオを所有しており、米国とフランス、日本を中心に活動中。

1. アメリカのラジオで音楽に目覚めた少年時代


−−まず、前回ご紹介下さいましたZeppライブ/バックステージプロジェクト杉本圭司さんとは、どのようなご関係なのでしょうか?

Goh Hotoda(以下G.H):杉本さんは、僕というよりも家内(NOKKO)と同じ埼玉県出身で、杉本さんというのはレベッカを結成するにあたって、影響力のあった方だったみたいですね。だから僕というよりも家内の方が昔からよく知っているんですよね。

杉本さんはどちらかというと自分がミュージシャンとして主役になるよりも、色々なものをコーディネートしたり、セットアップする方だったと聞いています。そして、杉本さんはプロモーターとしての道を歩まれて、多くの実績を積まれましたよね。実は先週も会って、色々話を聞いていました。

−−ここからはHotodaさんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれはどちらですか?

G.H:東京の国立です。

−−お父様は彫刻家だと伺っています。

G.H:玄関にも父の作品があるんですが、ブラジリアンローズウッドや黒檀といった希少な木材を使って独自の彫刻を作っていました。そして母親は声楽家でした。私は今、軽音楽じゃないですが、こういう仕事していますが、妹は小さい頃からピアノをずっとやっていまして、音大のピアノ科を卒業して今はクラシックの指揮者をやっています。

−−女性で指揮者をなさっているんですか?

G.H:ええ。まだメイン指揮者ではないんですが、アシスタントコンダクターとしてアメリカで仕事をしています。

−−一家全員アーティストなんですね。

G.H:そうなってしまいましたね(笑)。

−−おいくつまで日本にいらっしゃったんですか?

G.H:小学校終わるくらいまで日本にいましたから12歳くらいですね。

−−国立に住んでいらっしゃった頃は、どのような少年時代だったんですか?

G.H:うちは結構厳格と言いますか厳しくて、テレビはあったんですが、観せてもらえなかったんですよね。基本的に外からの情報はなし、みたいな感じでした(笑)。テレビを観られたとしても週末のみとか、そんな感じでしたね。それはそれで全く苦にはならなかったんですけどね。

それがアメリカに行った途端、ラジオを聴くようになったんです。たまたま自分たちが住むことになった部屋のラジオが、目覚ましラジオっていうんですか、目覚まし時計とラジオが一緒になっているやつで、それを聴くのが楽しくて。アメリカのラジオというのは局が無数にあって、ラジオを捻ればいくらでも音楽が聴けたんですね。

−−日本にいる間はラジオも聴いてなかったんですか?

G.H:70年当時、AMはもちろんありましたが、FMはまだ2、3局しかありませんでしたし、自分が聴きたい時間に音楽をやっているかどうか分からないですからね。

−−でもFENは聴けたんじゃないですか?

G.H:FENは入っていました。でも小学生にはちょっと早かったかもしれないですね。それで、アメリカ行った途端に、ラジオからクラシック、ポップス、ソウル、カントリーと何から何まで出てくるので、それが自分にとって最初の音楽との出会いでした。

−−ちなみに妹さんはずっとピアノをなさっていたとおっしゃっていましたが、Hotodaさんも習われていたんですか?

G.H:僕もやらされていたんです。「エリーゼのために」を弾けるようになるまではピアノは辞めちゃだめだと(笑)。あんまりやりたくなかったんですけどね。

−−そもそもアメリカに渡られた理由は何だったんですか?

G.H:実は、父は先にアメリカへ行っていて、日本では基本的に母と妹と私の3人で生活していたんです。その後、父が彫刻家として認められるようになったので、家族みんなでアメリカに行こうと渡米しました。

−−アメリカに渡られて、言葉の壁などいかがでしたか?

G.H:当時、日本の英語教育は中学校になってからでしたから、アメリカの学校の授業を受けてもよく分かりませんでした。分かることといえば算数くらいで、算数は当時アメリカの方が全然遅かったので、算数だけはよくできたのを覚えています。

それで小学校6年生をもう一度アメリカでやってから中学校に行くという手もあったんですが、それも大変だということで、中学校卒業するまでは日本にいなさいと、自分だけ祖母のところに引き取られて、日本に戻ったんですよ。そして中学校の3年間を祖母のところで過ごしたんですが、そのときはアメリカで過ごした間に聴いていたラジオのおかげでポップスや音楽が好きになっていたので、中学校になってからは音楽を貪欲に聴くようになりました。

−−音楽が趣味になってしまったと。

G.H:そうですね。そこからは日本の音楽でも流行歌でも何でも聴くようになりました。当時、細野晴臣さん、坂本龍一さんもそうですが、そういった方たちが新しい音楽を生み出していました。あと井上陽水さんとか、そういった音楽に興味が出てきました。その後、アメリカと日本を行ったり来たりしていたんですが、今度は母親が「日本食のレストランをやろう」と言い出しまして、いきなり家庭の事情というか(笑)、またアメリカに引き戻されたんです。