第124回 志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー

志村 明 氏
(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー
志村 明 氏 (株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー
 今回の「Musicman's RELAY」は、プロデューサー / ミックスエンジニア Goh Hotodaさんからのご紹介で、(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー 志村 明 氏のご登場です。幼少の頃から日本とアメリカを行き来され、両国の文化を体感された志村さんは、帰国後、バンド活動と共にPAエンジニアとしても活動されるようになり、以後、坂本龍一、YMO、ディック・リー、アンディ・ラウ、Mr.Children、TM NETWORK、宇多田ヒカル、EXILE、桑田佳祐など数多くのビッグアーティストのステージで手腕を発揮されてきました。現在は「サウンド・デザイナー」としてライブの音響設計に携わる志村さんに、ご自身のキャリアからPAの現状、そして今後の夢までお話を伺いました。
[2014年8月21日 / (株)スターテックにて]
プロフィール
志村 明(しむら・あきら)
(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー

1957年東京に生まれる。幼少の頃をニューヨークで過ごし、早くから音楽に目覚める。
日本大学芸術学部放送学科に通うかたわら、本格的にバンド活動に専念し、ブリティッシュ・ハードロックバンドジューダス・プリーストの日本公演の前座を勤めたこともある。その頃からパートタイムでPAや来日アーティストのPAの通訳をしていたことからミキサーを志すようになる。
1979年に学友らとPA会社を設立、コンサート及びレコーディングのミキシングを担当。
1990年、プロデューサー久保田麻琴氏の推薦でディック・リーをはじめ、サンディー・ラムなど数多くのアジアのアーティストのミキシングを手掛けるようになる。
同年、エンジニア集団(株)スーパーソニックを設立。(代表取締役)
坂本龍一、大貫妙子、高野寛、等を手掛ける。
1993年、東京ドームにおけるYMOの「再生」コンサートを手掛ける。
香港の四大天王の一人Andy Lauを担当し、ホンコン・コロシアム公演(20公演)及びアジアツアー(北京、上海、広州、深川、重慶、台北、シンガポール、22公演)を担当。
1994年に更なるステップアップを目指して、サウンド・エンジニアリング会社スターテックを設立。
同年、東京ドームにおけるTMN「終了」コンサート及び、坂本龍一“sweet revenge world tour” (日本16公演、香港2公演、ヨーロッパ14公演)を担当。
1990年代から坂本龍一、Mr. Children、globe 、SPEEDなどの大規模ライブのサウンドデザイン及びオペレーションを担当。
近年はEXILE、Mr.Children、桑田佳祐、宇多田ヒカルなど、日本のトップ・クラスのコンサートのサウンドをデザインする一方で、毎年開催されているap Bank Fesでは自らミキシング・エンジニアとしても活躍。スターテック所属の12名のミキシング・エンジニアのリーダーである。
いち早くコンサート音響にデジタルシステムを導入し、最新システムへの意識の高さと理論に裏付けされた技術、さらに豊富な経験を兼ね備え、アーティストやイベント制作スタッフからの信頼が厚い。

1. 「アメリカン・グラフィティ」のような世界にカルチャーショックを受ける


−−前回ご出演いただきましたGOH HOTODAさんと最初にお仕事されたのはいつだったんでしょうか?

志村:GOHさんと初めて一緒に仕事をしたのは、YMOの「TECHNODON LIVE」という東京ドームでのライブです。GOHさんはステージ上でYMOの後ろに卓を組んで効果音を足したりして、ライブでリミックスをしたんです。YMOの「TECHNODON」というアルバム自体GOHさんのミックスだったんですね。シーケンサーで実際にレコーディングで使ったシンセとかを鳴らしたんですが、GOHさんのミックスを私がライブで再現するということで、色々コミュニケーションを取りながら現場を作ったんですが、結構大変でした(笑)。

−−そこからは頻繁にお仕事をご一緒されているんですか?

志村:そうですね。それから坂本さんのプロジェクトが一緒で、その後、2000年にGOHさんから「宇多田ヒカルをやってくれないか?」と連絡を頂きました。

−−志村さんとGOHさんはアメリカで育ったとか、共通点もありますよね。

志村:ですから気が合うというか、ヒカルさんの現場だと、ヒカルさんも含めて3人英語で会話したりしていました(笑)。

−−ここからは志村さんご自身についてお伺いしたいのですが、お生まれは東京だそうですね。

志村:ええ。小学生までは世田谷区の深沢に住んでいて、それで父親が転勤になって、2回ほどアメリカで暮らしたんですね。帰ってきてからは武蔵小金井の近くで過ごしました。

−−お父様はどんなお仕事をされていたんですか?

志村:セメントやプラスチックを作るメーカー勤務で、海外輸出担当でした。

−−それで海外赴任が2回あったんですね。両方ともニューヨークですか?

志村:はい。ほとんど同じ地区に小学校1年から3年と、6年から中学2年まで居ました。時代としては1962年から66年、1969年から72年です。

−−フラワー・ムーヴメント全盛期の頃ですね。

志村:そうですね。街の中心地にヒッピーがいて、座って葉っぱ吸っているような感じでしたね。2回目のときはベトナム戦争真っ盛りで。

−−2回目くらいの年齢のときが一番英語を覚えやすかったんじゃないですか?

志村:実は小さいときの方が英語は上手くなるんですよ。でも、逆に日本語を忘れちゃうんです。言っていることはわかるんですが。母親曰く、母が日本語でしゃべって、私は英語で返していたそうです。2年くらいでそうなっちゃうらしいですね。

正直、何が起こっているのかよくわかっていなかったですね。いきなりニューヨークの小学校に入れられて、初めの頃は毎日泣いていました(笑)。幸い、現地で生まれた日本人の男の子と女の子が同じクラスにいて、その子たちに面倒をみてもらいました。

−−やはり強烈な体験だったんですね。

志村:当時の日本は東京オリンピックの前で、まだドブがあるようなところから、車がいっぱい走っている「アメリカン・グラフィティ」のような世界にぽっと入れられたので、当時のことはけっこう覚えていますね。LA経由でニューヨークに行ったんですが、父親が空港へ車で迎えにきていたんです。東京では運転してなかった父が、日本では見たことないような大きな車で現れて(笑)。それでハリウッドに泊まって、翌日ディズニーランドへ行ったんですが、日本にはまだありませんでしたから衝撃ですよね。

−−きっと、そのときの経験が今に大きく影響していますよね。

志村:まず、音楽がすごく好きになっちゃいましたね。父親は音楽が好きというほどではないかもしれませんが、レコードを買ったり、あとオープンリールの4トラックのテープがあったんです。それは会員に毎月何本か送ってくるパッケージのサービスで、それが送られてきては、私が先に聴いちゃうみたいな感じでした。

−−何を聴いていたんですか?

志村:クラシックやポップス、映画音楽、カントリーとかですね。恐らく父はアメリカの文化に馴染もうとしていたんだと思うんですが、ミッチ・ミラー楽団やアンディ・ウィリアムス、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、エルビス・プレスリーといった人たちの音楽を聴いて、音楽がすごく好きになりました。それで、だんだんと自我を持つようになって、小学校3年くらいのときだったと思うんですが、ビートルズの『ハード・デイズ・ナイト』を買ってもらったんです。

−−ビートルズをアメリカで聴いていたんですね。

志村:そうなんです。友達の間でもすごく流行っていたので、”ビートルズシャンプー”とか、グッズまで買ってもらった記憶があります。今にして思えば「取っておけばよかったな」って思いますけどね(笑)。ビートルズは子供たちにとってもアイドルだったんです。それで私も髪の毛を伸ばし始めて、小学校の担任の先生に”ジャパニーズ・ビートル”ってあだ名を付けられました(笑)。実はアメリカではコガネムシのことを“ジャパニーズ・ビートル”って言うんですよ。