第125回 佐野 健二 氏 ミュージシャン

佐野 健二 氏
ミュージシャン
佐野 健二 氏 ミュージシャン
 今回の「Musicman's RELAY」は、(株)スターテック 代表取締役 / サウンド・デザイナー 志村 明さんからのご紹介で、ミュージシャン 佐野健二さんのご登場です。アメリカンスクール育ちの佐野さんは、大学入学を機に渡米。以後、ロスをベースに音楽活動をし、’83年カラパナに加入、来日公演で凱旋帰国されます。その後もジェイ・グレイドンなど一流ミュージシャンたちとの仕事と同時に、日本国内でも活動を開始。globe、安室奈美恵のミュージック・ディレクターや、矢沢永吉のツアーにベーシスト兼バンドマスターとして参加するなど、日米を股に掛けて活動されてきました。現在はEXILEのミュージック・ディレクターとして、各種プロジェクトのレコーディングやライブに深く関わられている“キャプテン”佐野さんにたっぷりお話を伺いました。
[2014年9月30日 / (株)LDHにて]
プロフィール
佐野 健二(さの・けんじ)
ミュージシャン

生年月日:1955年8月6日  出身地: 兵庫県
1983年 Kalapana加入。翌年、初来日を果たす。
1988年 角松敏生と共同で中山美穂のアルバム『CATCH THE NINE』プロデュースを手掛ける。
     以降、早見優など日本のアーティストのプロデュースを手がけるようになる。
     仕事の依頼は多岐に渡り、鈴木杏樹と共に『BSヤングバトル』の司会を担当したことも。
1994年 ジャッキー・グラハムの音源制作に携わる。ジェイ・グレイドンの日本とヨーロッパのツアーに参加。
1996年 globe、安室奈美恵のミュージック・ディレクターを務める。
     約11年に渡り安室奈美恵のツアーのベーシスト兼バンドマスターとして活躍。
2001年 矢沢永吉のツアーにベーシスト兼バンドマスターとして参加。
2004年 EXILEと出会い、ミュージック・ディレクターとしてEXILEのレコーディングやライブに深く関わる。
     現在もEXILE、Exile Atsushiのミュージックディレクター兼ベーシストとして活動中。

1. 「これからの日本人は英語を話せなあかん!」〜父の後押しでアメリカンスクールへ入学


−−前回ご出演いただきました志村明さんと初めて会われたのはいつ頃ですか?

佐野:僕は94年にジェイ・グレイドン・オールスターズというバンドの日本公演で来日したんですが、そのバンドはジェイ・グレイドンを始め、シカゴのビル・チャンプリン、TOTOのジョセフ・ウィリアムズとスティーヴ・ポーカロという、とんでもないメンバーの中になぜか僕だったんですね。ジェイとは仲が良かったということもあるんですが、そのバンドのツアー初日が中野サンプラザで、そのときのエンジニアが志村さんだったんです。とにかくモニター周りも外音も滅茶苦茶良くて、「この人すごいな!」と思いました。それ以後、仲良くさせていただいています。

実はそのライブのときに、僕たちが後でチェックできるようにワンカメラで録った映像があったんですね。で、5年前くらいに「この映像はよく撮れているからDVDで出さないか?」と言われて出すことになりまして、「音はどうしよう?」となったときに、志村さんに連絡したら、ボードからダイレクトに録ったDATがあったんですね。これがとんでもなくバランスがいい音で、その音を映像に合わせてそのまま商品になりました。

それ以来もう20年、安室奈美恵ちゃんなど色々な現場でご一緒したんですが、僕がEXILEを任されてから、ずっと志村さんを呼びたかったんですね。ただ彼もすごく忙しくて、9年前にやっと口説き落として(笑)、それ以来ずっとやってもらっています。ATSUSHIのソロも彼がやってくれています。

−−佐野さんはずっとロスをベースに活動されていますが、志村さんはアメリカのエンジニアにも引けをとらない腕だと。

佐野:ええ。ジェイ・グレイドンはものすごく細かいところまで気にする神経質な人なんですが、そんな人が「Hey, That man 's great!」って言うくらいすごくいい音だったんですよ。日本にも凄腕のエンジニアの人はいっぱいいらっしゃいますけど、僕は志村さんが日本No.1だと思っています。

−−ここからは佐野さんご自身について伺っていきたいのですが、お生まれは神戸だそうですね。お父様がナイトクラブのマネージャーをしていたとか。

佐野:そうですね(笑)。親父はちょっと派手目な感じでしたが先見の明というんですか、僕が5歳のときに「これからの日本人は英語を話せなあかん!」とアメリカンスクールに入れてくれたんです。

−−当時ではものすごく珍しいですよね。

佐野:学校で日本人は僕一人でした。当時、神戸には3つか4つアメリカンスクールがあったんですが、中でも一番落ち着いている聖ミカエル国際学校というところに入りました。ですから、僕は日本の学校に行ったことがないんです。

−−日本語はどこで覚えたんですか?

佐野:家に帰ると日本語をしゃべっていて、デイタイムは英語、ナイトタイムは日本語でした。物心つく前からアメリカンスクールへ通っていましたので、自然と英語も日本語も話せるようになりましたね。

−−お父様は海外で生活されていたことがあるんですか?

佐野:それが全くないんです。ただ、進駐軍、GIがたくさんいた時代に、彼らに積極的に英語で話しかけていたようです。ですから、親父は最初GIが使う悪い英語しか知らなかったんですよ。

−−スラングですね。

佐野:そう、スラングです(笑)。二言目にはスラングが出るから授業参観のときなんか「あんまりしゃべらないで!」って言ってました(笑)。

−−帰国子女もまだ少ない時代に、アメリカンスクールでの生活は本当に貴重な経験ですよね。

佐野:はい。それはもう親父に感謝してもしきれないくらいです。親父は太く短く生きた人で、59歳で亡くなりました。今、親父と同い年なので、親父より長生きしないといけないなと思って頑張ってます!

−−佐野さんの音楽的なルーツはビートルズだそうですね。ビートルズを聴いてからすぐに楽器を始められたんですか?

佐野:ええ。ギターを始めました。全然弾けないですし、なんとなく触っているだけだったんですが、嬉しくて学校にエレキを持って行ってました!それを見た先輩たちが「ギター弾けるの?」と話しかけてくれて、彼らからギターを教えてもらいました。それで少し弾けるようになり始めてから、バンドを一緒にやったんです。その時僕は小学生でしたが、彼達は高校生でした!

−−バンドマン生活は小学校からですか?(笑)

佐野:小学6年生からです。長いですね(笑)。安岡力也さんがいたシャープホークスと言うグループのメンバーの1人が学校の先輩で、小学校6年頃からライブに連れて行ってもらったりしていました。あと、親父がディック・ミネさんと大親友で、三根信宏さんというディックさんの息子さんがその時シャープホークスと一緒にやってたシャープ・ファイブと言うバンドのギタリストだったこともあり、三根さんにも可愛がって頂いてました。

−−ずいぶん大人びた小学生だったんですね。

佐野:ませていましたね(笑)。