第128回 松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家

松尾 潔 氏
音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家
第128回 松尾 潔 氏 音楽プロデューサー / 作詞家 / 作曲家
 今回の「Musicman's RELAY」は (株)ソニー・ミュージックレーベルズ 執行役員 大谷英彦さんのご紹介で、音楽プロデューサー 松尾潔さんのご登場です。音楽的に芳醇な福岡で青春時代を過ごされた松尾さんは、早稲田大学在学中にR&Bやヒップホップを主な対象として執筆活動を開始。同時にラジオDJとしても活動され、久保田利伸との交流から音楽制作へ。SPEED、MISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加した後、プロデュースした平井堅、CHEMISTRY等を成功に導き、2008年には、EXILE『Ti Amo』(作詞・作曲・プロデュース)で第50回日本レコード大賞「大賞」を受賞と、日本を代表する大ヒット・プロデューサーとして確固たる地位を築かれました。そんな“KC”こと松尾潔さんにご自身の生い立ちから、そのプロデュース術まで、たっぷりお話を伺いました。
[2014年12月22日 / (株)スマイルカンパニーにて]
プロフィール
松尾 潔(まつお・きよし)
音楽プロデューサー、作詞家、作曲家 / Never Too Much Productions代表

1968年1月4日生まれ。福岡市出身。
1980年代後半よりR&Bやヒップホップを主な取材対象としてライター活動を開始。ジェイムズ・ブラウン単独インタビューをはじめ、米英での豊富な現地取材をベースとした執筆活動、多数のラジオ・TV 出演を重ねる。
1990年代半ばから本格的に音楽制作に携わるようになり、プロデューサーとして平井堅を大ブレイクに導く。
1999年、テレビ東京『ASAYAN』の「男子ヴォーカリストオーディション」でCHEMISTRYを発掘、名付け親となり彼らの大ヒットした初期楽曲をプロデュース。
2002年、日韓共催FIFAワールドカップ公式テーマ曲『Let’s Get Together Now』をプロデュース。韓国で公式放送された初めての日本語詞曲となり歴史的な1位を獲得する。その後、東方神起の日本デビューに関わりK-POP市場の飛躍的拡大の原動力となった。
2008年にEXILE「Ti Amo」(作詞/作曲/プロデュース)で第50回日本レコード大賞、2011年にJUJU「この夜を止めてよ」(作詞/プロデュース)で第53回同賞優秀作品賞を受賞するなど、ヒット曲、受賞歴多数。プロデューサー、ソングライターとして提供した楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。
2014年、初めての音楽エッセイ集『松尾潔のメロウな日々』を上梓。
NHK-FMの人気番組『松尾潔のメロウな夜』は放送6年目を迎える。

1. ソニー・ミュージックレーベルズ 大谷英彦氏は盟友であり戦友


−−まず前回ご出演いただきましたソニーの大谷英彦さんについてお伺いしたいのですが。

松尾:大谷さんは盟友であり戦友です。彼と初めて一緒に仕事をしたのはCHEMISTRYでした。CHEMISTRYはテレビ番組『ASAYAN』の中で選ばれた2人で結成しました。テレビ東京、電通、吉本興業、そしてソニー・ミュージックの4社で立ち上げた男子ヴォーカリストオーディションです。

CHEMISTRYのデビューの時点では大谷さんはまだいらっしゃいませんでしたね。彼が参加することによって活動が本格化したようなところがあります。そもそも当初は僕自身も『ASAYAN』に対して理解の欠如と偏見がありました。モーニング娘。や鈴木亜美さんが出てきた番組、くらいの認識でしたから、プロデューサーとしてオーディションに参加要請された時も「まさか自分が『モーニング息子。』なんてやるわけないでしょ」と思って(笑)。つんく♂さん、小室哲哉さんがおやりになって「で、なんで次が僕なの?」と。実際ソニーさんからお話を頂いたときは2度ほどお断りしました。でもオーディションの全国予選がスタートしていくつか素材を見せてもらう中で、ソニーの一志順夫さんと斎藤和久さんのプレゼンに心を掴まれまして、次第に「意外と面白いかも」と思いはじめ、3度目のお話のときに引き受けました。後にCHEMISTRYとなる2人もその中にいたんですが。

−−松尾さんも途中参加だったんですね。

松尾:地方予選の終わりあたりからです。で、ソニーのスタッフとミーティングを重ねてデュオ結成を提案しました。応募してきた子たちの大半はおそらくソロでデビューすることを夢見ていたと思いますけどね。

CHEMISTRYはソニーのデフスターレコーズから「PIECES OF A DREAM」というシングルでデビューします。確か大谷さんはその後にデフスターへ移ってこられたんですよ。営業畑のご出身という先入観もあり「ずいぶんカッチリとした方がいらしたな」というのが第一印象でした。彼はハンサムですからね。たいへん端整な顔立ちをされていますし、語弊があるかもしれないですが銀行員でも通じるような折り目正しさを感じたんです。僕はその頃営業の方と接する機会はなかったので、そういう方がチームCHEMISTRYのA&Rのトップに就かれても話の接点はあるのかと気になったんですよ。でもそれはほんの初めだけで、実際にお話ししたら音楽好きの熱い方ということがすぐ分かりましたし、何より年齢も一緒なのですぐに意気投合しました。CHEMISTRYにまつわる思い出や成功体験をふり返ると、常に大谷さんがそばにいらっしゃいますね。

−−CHEMISTRY以前からデフスターとはお仕事されていたんですか?

松尾:ええ。デフスターの前身は亡くなった吉田敬さんが現アリオラジャパン代表の藤原俊輔さんとたった2人でソニー・レコーズの中につくったチームですが、そこで平井堅をテコ入れするときに声をかけていただいたんですよ。

シングル「楽園」からチーム平井に合流して、その曲を含むアルバム『THE CHANGING SAME』から僕がトータルプロデュースを任せていただきました。アルバムはソニー・レコーズからリリースされたんですが、ほどなくしてデフスターが立ち上がり品番を変えて同社のアイテムとして出し直したので、僕が最初に関わったデフスター作品は『THE CHANGING SAME』ということになります。「ASAYAN」に関わったソニー・ミュージックのスタッフはこれまでのソニーにはいなかったアーティストをつくろうと意気込んでいたし、僕は平井さんのプロデュースも継続していきたい意向があったので、それらを実現しやすい環境を求めてCHEMISTRYはデフスター所属になりました。当時のデフスターは平井堅とthe brilliant greenの2組だけだったんですよ。

平井さんやCHEMISTRYの仕事を離れたあとも、ありがたいことにソニー・ミュージックとのお付き合いが途切れたことはありません。久保田利伸さん、鈴木雅之さん、Skoop On Somebody、Kくん、仲間由紀恵さん、松下奈緒さん……そしてJUJU、Flower。震災後にまた平井さんとご一緒させていただきましたし。ただ、2005年ごろからはエイベックスとのつながりもどんどん深くなっていきました。具体的には東方神起の日本デビューやEXILEの第二章スタートといった節目に関わらせていただいたのが大きいですね。奇しくもEXILEのATSUSHIくんやネスミスくんは「ASAYAN」の男子ヴォーカリストオーディションのファイナリストでした。

−−そう考えるとすごいオーディションでしたよね。

松尾:「むかしATSUSHIやネスミスをオーディションで落としておきながら、今EXILEとガッツリ組むってどんな気分ですか?」という非難めいた質問をよく受けるのですが、正直なところATSUSHIくんやネスミスくんを「落とした」という意識はそれほどないんですよ。僕からすれば応募者2万人の中からファイナリストの5人に選んだという事実のほうが重要で。その中でデュオを決めるときに、組み合わせとして川畑くんと堂珍くんがベストと判断して2人を選んだまでです。この2人にプラスATSUSHIくん、ネスミスくん、それに今はミュージカルの世界で大変成功している藤岡正明くんの5人が残っていたんですが、5人にはもちろん個性の違いはあっても決定的な優劣の差はありませんでした。僕が番組内で「佐藤くん(ATSUSHI)は大人数のグループやソロという形だったらいいと思う」と話したくらいですから。実際その通りになったわけですが、さっきお話ししたように悪趣味な質問を投げかけられることは今でも日常茶飯事です(笑)。

−−(笑)。そう思っていました。大変失礼いたしました。

松尾:男子ヴォーカリストオーディションでは途中から“最高のデュオ結成”が至上命題になりました。例えばサッカーの代表選考でも「トップの11人を集めるのではなくて、ベストのチームになるイレブンを選ぶ」といいますが、まさにそういうことですよね。デュオですから2人の相性もありますし、CHEMISTRYに関して言うとソニー・ミュージックの社風や得手不得手も考慮してああいう結果になったんです。

−−なるほど。

松尾:大谷さんの話に戻すと、CHEMISTRY以降は仕事上の接点はほとんどなかったんですよ。それが2008年のお正月にハワイで休暇をとっているときに、偶然ホテルでお会いしました。彼はその半年ほど前にデフスターからソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズに異動されたばかりで。自然な流れでいろいろお話したんですよ。プールサイドでピニャ・コラーダ飲みながら(笑)。「大谷さんは今、何をやってらっしゃるんですか?」と聞いたら「アソシでJUJUというアーティストをやっているんですよ」「あっ、知っていますよ。ニューヨークの子ですよね。あの子歌うまいですねえ」と。ただ、その頃のJUJUはアルバムを出していたものの、現在の活躍ぶりはちょっと想像できないような、まだマニアックな存在でした。「東京に帰ったら、改めてご相談させてください」と言ってくださって、それからJUJUで久々にご一緒するようになりました。

−−偶然の再会から仕事のお付き合いが復活したんですね。

松尾:いま思えば大谷さんだけでなくソニー・ミュージックとも縁遠くなりかけていた時期でしたね。僕は学生時代から市ヶ谷の黒ビルに出入りしていたので、一時は「もうソニーの名刺を持ったら?」と言われるくらいドップリ浸かっていたんですよ。二十歳そこそこで企画書持ち込んでプレゼンしていましたから。ですから「ソニー愛」というのかな、いびつな強い愛情を持っていて、だからこそ「僕の知ってるソニーはこんなんじゃない!」と気持ちが空回りすることもあり、その時期はちょっと仕事は勘弁という感じになりかけていたんです。ハワイでの再会以来、大谷さんという最良の窓口を経て、いちど退学しかけた学生が聴講生として戻ってきた感じですね(笑)。