第129回 中村 力丸 氏 株式会社八大コーポレーション 代表取締役

中村 力丸 氏
株式会社八大コーポレーション 代表取締役
第129回 中村 力丸 氏 株式会社八大コーポレーション 代表取締役
 今回の「Musicman's RELAY」は松尾潔さんからのご紹介で、(株)八大コーポレーション 代表取締役 中村力丸さんのご登場です。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「明日があるさ」「黒い花びら」「黄昏のビギン」など数々の名曲を手掛けられた作曲家 中村八大さんの長男として生まれた中村力丸さんは、将来を模索される中で、ひょんなことから音楽業界に身を投じられます。以後、音楽出版社で仕事をされつつ、八大さんの死後は(株)八大コーポレーションも兼務され、まさに二足のわらじ状態で奮闘されます。現在は、八大さんの楽曲の著作権管理をされつつ、多くのプロジェクトを通じて、稀代の作曲家「中村八大」の作品の魅力を日本国内ならず世界へ発信されている力丸さんに、ご自身の生い立ちから、父・中村八大さんの素顔、その創作に込められた想い、そして今後のプロジェクトについてまでお話を伺いました。
[2015年2月20日 / (株)八大コーポレーションにて]
プロフィール
中村 力丸(なかむら・りきまる)
株式会社八大コーポレーション 代表取締役

1963年6月8日生れ
1971年 青山学院初等部入学
1982年 青山学院大学法学部入学
1986年 同学部卒業後(株)サウンドクラフト系列の音楽出版社(株)ミュージクラフト勤務
1992年 父親の他界を契機に同社勤務を続けながら(株)八大コーポレーション代表取締役就任
1998年4月 (株)サウンドクラフト退社
1998年7月 イーエムアイ音楽出版(株)入社
1999年 イーエムアイ音楽出版から(株)フジパシフィック音楽出版へ
2010年12月末 (株)フジパシフィック音楽出版退社 現在に至る

1. “「こんにちは赤ちゃん」の赤ちゃん”


−−松尾潔さんとお知り合いになったきっかけは何だったんですか?

中村:コルネイユというアーティストが2007年に出したアルバムに「上を向いて歩こう」のカバー・バージョンを収録することになりまして、そのときのプロデューサーが松尾さんでした。レコード会社からオファーが来て、話が整った段階で、松尾さんから「スタジオに是非来てください」とお声がけを頂きました。普通、カバー録音の許諾についてご連絡を頂く場合、事務的な話だけで終わり、現場のプロデューサーの方からお声をかけていただくことはめったにないので「光栄だな」と思い、スタジオへ伺いました。

それまでの松尾さんに対する印象といえば、沢山目にしていたブラック・ミュージックについて書かれているライナー・ノーツや原稿などから「普段はあまりご一緒することがない方なのかな」という勝手なイメージを持っていました(笑)。多分、松尾さんもそうだったと思いますが、お互いにいい意味でイメージが違っていたのではないでしょうか?松尾さんはとても丁寧で、当たりも柔らかい方ですが、根本的には男っぽい、骨っぽい方でいらっしゃいますよね。スタジオでの話はすごく弾みましたし、その後も親しくお付き合いをさせていただいています。

特に去年は、松尾さんがデューク・エイセスさんの「友よさらば」と「生きるものの歌」をプロデュースされて、「生きるものの歌」は永六輔作詞・中村八大作曲の曲ですし、ディーク・エイセスさんとも長くお付き合いさせていただいていることもあって、私も録音の現場に立ち会っていました。「生きるものの歌」は、もともとは永六輔さんが歌われた曲で、曲間に語りの部分があるんですが、「今回も永さんご本人にお願いしてみよう」という話になり、私が永さんにお願いする役割をいただきました。幸いにもご快諾いただいて、21世紀の新テイクを録らせていただくことができました。

−−仕事場での松尾さんのお仕事ぶりはいかがでしたか?

中村:スタジオへ伺うとミュージシャンの方やスタッフの方とのチームが常に完全に練り上がっていて、そのチームを統率されている姿がプロフェショナルだなと感心させられます。チームの皆様の相互の信頼が伝わってくるのです。

−−ここからは中村さんご自身のお話を伺いたいのですが、お生まれは東京ですか?

中村:はい。1963年6月8日に東京の逓信病院で生まれました。私は長男で、妹が3人おります。父の作品で言いますと、「黒い花びら」が1959年、「上を向いて歩こう」が1961年、その年から「夢であいましょう」が始まっていますから、とにかく父が忙しいときに私は生まれています。

父が結婚したときの年齢は31才で、当時は「八大さんがようやく結婚したよ」と仲間内で囃されていたそうです(笑)。その翌年に私が生まれているので、「赤ちゃんが生まれた!」という話題でまた盛り上がっていたと聞いています。

私が生まれた直後に、永さんが父と一緒に病院へいらしたのですが、ガラス越しに私を見る父の様子とか、父が口ずさんでいたメロディーから発展してできたのが「こんにちは赤ちゃん」です。だから、私は「こんにちは赤ちゃん」の赤ちゃんなんです(笑)。

−−あの曲のインスピレーションになった赤ちゃんが力丸さんなんですね。

中村:きっかけにはなりました。赤ちゃんの頃はそれなりに可愛かったと言われるので許してください(笑)。数字には縁があるようで、生まれた6月8日はそのまま「六・八」の日です。また、その日は土曜日で「夢であいましょう」の生放送の日でした。、その日の放送の映像は残っていますが、特集が「『上を向いて歩こう』が世界で流行っているらしいよ」という(笑)。実際に6月8日付のビルボード・チャートで2位、1週間後の6月15日付で1位になり、3週連続1位という、皆さんもご存じの「SUKIYAKI」の話になるんです。

−−とにかく素晴らしいタイミングでお生まれになったんですね。

中村:そうですね(笑)。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしたので、梓みちよさんと一緒に写っている写真がたくさんあるのも嬉しいです。その翌年の1964年から1年間、父はニューヨークに移住します。

−−それは家族全員でニューヨークに行かれたんですか?

中村:ええ。父と母と私で。ニューヨークに渡ったのが7月なんですが、10月に妹が生まれていますから、母はかなりお腹が大きい段階でニューヨークへ行っています。ですから、ベビーシッター的な役割で母の妹も一緒に行きました。私にとって大切な叔母です。

−−ニューヨークはマンハッタンに住んでいらしたんですか?

中村:そうです。マンハッタンの真ん中で。

−−今のニューヨークとは価値が全然違いますよね。

中村:そもそも海外旅行ですら当時は普通に行けないですよね。レートは360円の固定、外貨の持ち出し制限が厳しかったと聞いています。普通ではあり得ないプランが実現したのは、父を育ててくださった渡辺晋さんを始めとする仲間の方たちと、当時の東芝音楽の石坂範一郎さんを始めとするネットワークに支えていただいていたからです。ニューヨークへは父の意志で行っているんですが、その意志とは何だったかというと、「もっと音楽の勉強をしたい」という想いで、そういう気持ちを常に持っていた人でした。

帰国後、父が独身時代から住んでいた三田の東急アパートに戻りますが、事務所も兼ねていたので色々な人が出入りして、業界的な華やかなさと賑やかさのあった家だったと聞いています。でも、両親は「普通の家庭にしないと」と思ったのでしょう、馬込の家に引っ越すことになります。