第130回 大友 良英 氏 音楽家

大友 良英 氏
音楽家
第130回 大友 良英 氏 音楽家
 今回の「Musicman's RELAY」は中村力丸さんからのご紹介で、音楽家 大友良英さんのご登場です。横浜に生まれ、10代は福島で過ごされた大友さんは、上京後、音楽活動を開始。ギタリスト、ターンテーブル奏者として即興&ノイズ演奏、そして自身のバンド「Ground Zero」で、国内のみならず、海外でも積極的に活動され、同時に映画・テレビドラマなど数多くの映像作品の音楽を手がけられてきました。近年は障害を持つ子どもたちとの音楽ワークショップや一般参加型のプロジェクトにも力をいれ、2011年の東日本大震災を受け福島で様々な領域で活動をする人々とともに「プロジェクトFUKUSHIMA!」を立ち上げるなど、音楽におさまらない活動でも注目されています。そして、記憶に新しい2013年『あまちゃん』の音楽で多くの人々を魅了した大友さんにたっぷりお話を伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
[2015年4月2日 / カフェ・アプレミディにて]
プロフィール
大友 良英(おおとも・よしひで)
音楽家(ギタリスト/ターンテーブル奏者/作曲家/映画音楽家/プロデューサー)

1959年横浜生れ。十代を福島市で過ごす。常に同時進行かつインディペンデントに即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽をつくり続け、その活動範囲は世界中におよぶ。映画音楽家としても数多くの映像作品の音楽を手がけ、その数は70作品を超える。
近年は「アンサンブルズ」の名のもとさまざまな人たちとのコラボレーションを軸に展示する音楽作品や特殊形態のコンサートを手がけると同時に、障害のある子どもたちとの音楽ワークショップや一般参加型のプロジェクトにも力をいれ、2011年の東日本大震災を受け福島で様々な領域で活動をする人々とともにプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げるなど、音楽におさまらない活動でも注目される。
2012年、プロジェクトFUKUSHIMA ! の活動で芸術選奨文部科学大臣賞芸術振興部門を受賞、2013年には「あまちゃん」の音楽他多岐にわたる活動で東京ドラマアウォード特別賞、レコード大賞作曲賞他数多くの賞を受賞している。

1. 高度成長期前夜の記憶がある最後の世代


−−中村力丸さんとお知り合いになったきっかけは何だったんですか?

大友:力丸さんと出会ったのは、10年くらい前だと思います。歌手のさがゆきさんという方がいらっしゃって、さがさんは中村八大さんと最後の頃、仕事していた方なんですが、そのさがさんが中村八大さんの曲を歌うアルバムのプロデュースをしてほしいという依頼があり、その際に楽曲使用の許可を頂く中で力丸さんとお会いしました。その頃、力丸さんはフジパシフィック音楽出版(現 フジパシフィックミュージック)に勤めていらっしゃったんですが、驚くべきことに、力丸さんの隣の席に僕の高校時代の音楽仲間がいたんですよ。

−−それはどなたですか?

大友:桑原(聡)君という人で、今は部長さんをやっているのかな。それで桑原君は力丸さんの上司だったので、話がトントン拍子に進んで。そんな出会いでした。最初、八大さん関係の方なのでこっちもドキドキしていたんですが、桑原君がいたおかげで、ちょっとホッとしました(笑)。

それでアルバムが出来上がって、コンサートをやり、そのプロジェクトは一旦終わって、しばらく間が空いていたんですよ。僕としてはそう気軽に声をかけられる方ではないので、「いつか機会があったら…」と思っていたんですが、一昨年くらいに力丸さんの方から声を掛けていただいて、来年やる中村八大さんの企画の相談に乗って欲しいということで、その辺りからまた頻繁にお会いするようになりました。

−−やはり中村八大さんの存在は大友さんにとっても大きいですか?

大友:そうですね。「上を向いて歩こう」が発売されたときは、まだ小さかったので覚えてないですが、八大さんの歌は小さい頃よく口ずさんでいましたし、坂本九さんがとにかく大好きでした。僕は昭和34年生まれ、高度成長期前夜の記憶がある最後の世代ですが、物心つく頃は坂本九さんの全盛期でしたから。

−−お生まれはどちらですか?

大友:横浜です。当時できたばかりの団地で生まれたんですが、そこは四畳半と六畳とお風呂がついていて、若い夫婦が住む想定で作られた団地で、親はそこの抽選に当たって嬉しかったと言っていました。母方の実家が横浜の杉田にあったんですが、週末になるとそこに親戚や近所の人たちが集まって、宴会になるんですね。そのときにみんなで歌うのが坂本九さんやクレイジーキャッツの曲で、「シャボン玉ホリデー」や「夢で遭いましょう」をみんなで観るんです。

−−大友さんの音楽の原体験でしょうか。

大友:いまだに一番幸せな記憶がそれですよね。最近ドラマとかで昭和30年代の下町の風景が描かれますけど、まさにそういった感じでしたね。近所のお兄ちゃんがエレキギターを買って「不良」と呼ばれているとか(笑)。そんな世界ですよね。

−−大友さんのお父様は電気屋さんだったそうですね。

大友:正式には電気の技師だったんです。工場に勤めていて。うちにあるラジオやオーディオとか全部親父の自作で、テレビも自作でした。

−−テレビも自作ですか。凄いですね。

大友:親父に話を聞いたら、東芝とか大きな会社がテレビを作り出す前に、個人で小さいテレビを作る人がいっぱいいたそうなんです。親父もテレビを作って、一台売れたら一ヶ月暮らせたと言っていました。でも、大手企業がテレビを売り出したら、あっという間に立ちゆかなくなったので、工場勤めになったそうです。とにかくなんでも作っちゃう親父でしたね。最近、実家に帰ったら玄関に監視カメラがついていて、「どうしたの?」って訊くと、「作った」と言っていました。

−−お父様は今おいくつですか?

大友:86歳かな。その作業がプロの技なんですよ。丁寧な仕上げで。そういう親父のもとで育ったので、僕も小学校の後半くらいにはラジオを作るようになっていました。だから中学校のときはエンジニアに憧れて、それこそスタジオで働きたいと思っていました。