第133回 古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー

古賀 正恭 氏
FM COCOLOプロデューサー
古賀 正恭 氏 FM COCOLOプロデューサー
 今回の「Musicman's RELAY」は福岡風太さんからのご紹介で、FM COCOLO/FM 802の古賀正恭さんのご登場です。大阪で青春時代を過ごされた古賀さんは、音楽に目覚めてから大阪・京都での数多くのコンサートに通いつめ、自然と関西ミュージックシーンに関わっていきます。雑誌の編集などを経て、上京。イベンターのホットスタッフ・プロモーションに籍を置かれつつもラジオ&テレビ制作に関わられ、大阪に戻ってからはFM802、そしてFM COCOLOで多くのラジオ番組、イベントを制作されてきました。今回は古賀さんご自身のお話から、ラジオを取り巻く環境と今後について、じっくり伺いました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也)
プロフィール
古賀 正恭(こが・まさやす)
FM COCOLOプロデューサー

1959年山口県下関生まれ、大阪育ち。
学生時代より音楽制作に携わるようになり、コンサート制作、雑誌編集などを経験。
86年からは数年間、東京で活動(TV、ラジオ、イベントなど)の後、91年に大阪に戻りFM802に参加。7年間イベント、キャンペーン等を担当。
98年より編成部に移動し、番組プロデュースを担当。
2010年より「大人のミュージック・ステーション」FM COCOLOをプロデュース。

1. 感覚的には関西人、でも喋る言葉は標準語


−− 前回ご登場いただきました、福岡風太さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

古賀:風太さんは僕らの世代の憧れの人でした。ラジオで高田渡さんや岡林信康さんたちの音楽を聴くようになって、そういうミュージシャンが出る「春一番」コンサートが天王寺でやっていることを知って行くようになったんです。その前には高島屋で「六番町コンサート」っていうのを月1回100円でやっていたんですよ。

−− 100円は安いですね。

古賀:当時としても安かったですね。天王寺の野音とか、高島屋のローズシアターに行くとチラシを配っているので、次はそれを観に行ったり。僕は当時京阪沿線の門真というところに住んでいて京都にも近かったですから、京都・大阪の大学でやっている無料コンサートにも行きましたし、今考えるとすごく幸せな生活でしたね。邦楽はラジオで聴くか、ちょっと頑張ってレコードを買うこともありましたが、基本的に音楽を聴きたかったらコンサートに行けばいいと思っていましたし、そこにはラジオで耳にした音楽をレコードより早く演奏している人たちがいて、どんどん聴く音楽の幅が広がっていきました。

−− そういったコンサートのプロデューサーが福岡さんだったと。

古賀:そうなんですよ。風太さんはいつも自分で舞台に上がって司会するので、「あのテンガロンハットのお兄さんはなんなんだろうな・・・」と思って観ていました。高校生になると、どういう人たちなのかなんとなくわかってきて、ミュージシャンとも違う世界の人だと思っていたんです。

その頃になると、いわゆるロック喫茶巡りとかし始めたんですが、ロック喫茶に行くと、ステージに上がっていた人がいたりね(笑)。当時、大阪にロック喫茶やコンサートが紹介されている情報誌があって、それを見て恐らく一番最初に行ったのは道頓堀の「サブ」というロック喫茶で、そこはどちらかと言うと子供は歓迎していない雰囲気だったんですね。その次に難波元町の「ディラン」へ行き、そして天王寺の「MANTOHIHI(マントヒヒ)」に行くようになって、そこが一番居心地よかったので、そのあたりをうろうろしていたんですが、コンサートが終わるとその界隈の人が来たりもしていたんです。

そのうち阿部登さんのチラシ撒きの手伝いをしたりとかして、「次のコンサートに早めに来て、楽器を運ぶのを手伝ったらタダで観せてやる」と言われて、「ラッキー」って思いながら行ったり、ほとんどその状態で現在まできています(笑)。

−− 長いおつきあいですよね。70年代からだと約40年ですか。

古賀:そうですね。でも、周りもそんな人たちばっかりですよ(笑)。グリーンズコーポレーションの鏡孝彦さんとか、ちょうど同じ頃にうろうろしていた人ですしね。一緒に遊んだり、手伝いとか一緒にやったり。

−− その頃から現在、大人になっても一緒に仕事をやられているというのはすごいですよね。

古賀:大人になっているかというのは疑問ですけどね・・・歳だけとって(笑)。

−− (笑)。

古賀:当時の関西ってサイズがちょうどよかったのかもしれないですね。大阪ならここ、京都ならここ、みたいに、新しい音楽を面白がる人たち集まる場所って決まっていたんですよ。人数もそんなに多くなかったですし、ひと世代違う人でもお互いにやっていることが見えたりとか。もう少し小さいエリアだったら全員顔が見えるんだけど、距離が近過ぎて、もめ事も起きやすくなりますからね。

−− 閉塞感も出てきますね。

古賀:ええ。大阪も閉塞感がないわけじゃないんですけど、適度な閉塞感なので(笑)。ある程度ほっておいてくれますし、一番大きいのは、東京の大きい産業としてやっている方々から少し離れているので、比較的好きなことをやっていても誰も何も言わないんですよ。だから内側で楽しんでやることができたかもしれません。

−− ここからは古賀さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは下関と伺っています。

古賀:確かに下関生まれなんですけど、父の仕事の関係で一瞬だけ下関にいたときに生まれただけで、下関のことはほとんど覚えてないです。父は九州出身、母は岐阜出身で、大阪生まれではないんですが、その後、新興団地があった大阪の枚方に引っ越しました。これは後から気がついたんですが、その団地に関西人ってほとんどいなかったんですよ。外から入ってくる人とか、関西人でも、当時団地って特殊な生活形態だったので、わざわざ一軒家を売って団地に来た医者の家族とか、多分家賃も高かったと思うんですね。父は会社の意向でそこに住んでいたらしいんですが、その当時にしたらとても大きい団地で、子供の僕にしたらその団地だけが世界の全てでしたし、その中ではみんな標準語を喋っていたんですよ。

−− 大阪に標準語の地域なんてあったんですね。

古賀:大阪市内から転校してくる子がいたら、みんなから「言葉がおかしい」っていじめられていたくらいですから。

−− いわゆるニュータウンですか?

古賀:ニュータウンですね。その影響で言葉がおかしいので、関西人の中に入ると「変な奴」って言われていましたね。小さい頃から吉本新喜劇は観ていましたし、感覚的には関西人なんですけどね。

−− 古賀さんの関西弁はネイティブな関西弁じゃない?

古賀:そうですね。

−− 古賀さんのお家は、今のお仕事に繋がるような音楽的な環境のあるご家庭だったんですか?

古賀:4歳上の姉がいるので、小学生から中学生のときに、姉の横でラジオを聴いていたのはすごく大きいですね。小学校高学年くらいには渡辺貞夫さんや日野皓正さんの演奏するジャズを聴いていましたし、MBSヤングタウンではフォークの人たちがしゃべっていたり、今考えると当時のラジオは幅広かったですね。