第135回 平山 雄一 氏 音楽評論家

平山 雄一
音楽評論家
音楽評論家 平山雄一氏
 今回の「Musicman's RELAY」は元NHKディレクター湊 剛さんからのご紹介で、音楽評論家の平山雄一さんのご登場です。学生時代はバンド活動にいそしんだ平山さんは、78年より音楽評論活動を開始。J-POP創成期から音楽シーンに積極的にコミットし、観たライブは5,000本超、インタビューしたミュージシャンは2000人以上に及びます。また、原稿執筆と並行して、NHK-FM「サウンドストリート」のDJやイベント・キャスティング、コンサートのプロデュースなど、様々な角度から評論活動を展開されている平山さんにご自身のキャリアから音楽業界への提言、そして今後の活動の展望までじっくり話を伺いました。
2016年2月1日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
平山 雄一(ひらやま・ゆういち)
音楽評論家

1953年1月10日東京都立川市生まれ。一橋大学社会学部卒。
1978年より音楽評論活動開始。
J-POP創成期から音楽シーンに評論家として積極的にコミットし、インタビューやライブ・ウォッチングなど徹底したフィールドワークを 行う。 これまで観 たライブは5000本を超え、インタビューしたミュージシャンは2000人以上に及ぶ。テーマを「ロックやポップスの日本化」に据え、 欧米で生まれた表現 手段がこの国ならではのスタイルを獲得していく過程を検証するために、若者の音楽に対する自己投影やカタルシスの 在り方を観察。21世紀 に入ってからは、 より広く「ロックやポップスのアジア化」の検証にテーマをシフトしようと目論んでいる。 同時に成熟した音楽ファンのためのイベント・キャスティングも手掛け、毎年、夏と冬にシリーズ・コンサートをプロデュースしている。また、2013年には音楽評論集『弱虫のロック論 GOOD CRITIC』(角川書店)を出版した。
一方、俳句にロックに通ずる詩情を感じて、年齢を重ねた世代ならではの深く簡潔な表現に魅かれて俳句作りを開始。現在、わらがみ句会代表。 俳句結社誌『鴻』でコラム「on the street」を連載中。音楽と俳句を結びつけた新境地の創出を目指している。

1. 純邦楽の流れる家庭で育った幼少時代


−− 前回ご出演いただきました湊さんとの出会いはいつ頃だったんでしょうか?

平山:湊さんとの出会いはもう30年前ですね。僕は大学を23歳で卒業して、思うところがあり就職しないでいたら、雑誌『Player』で連載していた友達が留学か何かで急にアメリカに行くことになって、「編集部に話はついているから後を継いでほしい」と言われて、原稿を書いて持っていったら「お前、誰だ?」と、話なんて全然通ってなかったんですよ(笑)。

−− (笑)。

平山:でも原稿を見てもらったら「いいじゃん」と言われ、そこから仕事になっていきました。ただ、すぐには食えなかったので、今考えてみると良い経験だったなと思うんですが、阿久悠さんの事務所で阿久悠さん個人がミニコミを出していて、その編集のギャラで食い繋いでいたんです。そこで歌謡曲の世界に割と早めに触れることができて、阿久さんや三木たかしさん、都倉俊一さんなどにお会いできて、すごい経験だったなと思います。

−− 若き日に歌謡界の錚々たる方々と会っていらっしゃったんですね。

平山:ええ、もう財産ですよね。あの当時は仕事を断らずにやっていて、月60本くらい原稿を書いていたんですが、7:3で洋楽より邦楽の原稿が多くなっていった時代です。そうこうしているうちにエピック・ソニーが設立されて、日本のロックにすごく力を入れたんです。なぜかというと「親会社のCBSソニーとバッティングしないジャンルをやれ」と言われていたからなんですが、エピックの宣伝部長がNHKからラジオのパーソナリティ枠をもらっていたんですよ。普通だったら、当然エピック所属のアーティストをそこに入れますよね。でも、その宣伝部長から「平山さん、エピックの枠で入れておいたから」と言われて(笑)。その担当ディレクターが湊さんだったんですね。

−− それがNHK-FM『サウンドストリート』ですか?

平山:そうです。僕は渋谷陽一さんが辞めてから番組が終わるまでの1年ぐらいパーソナリティをやったんですが、そのときの同期が坂本龍一さんや「PSY・S」の松浦雅也さんなどそうそうたるメンバーでした。また、パーソナリティになる前から、夏休み特番なんかで、村八分とか日本のロックをかける番組を湊さんと作っていました。

−− 村八分というアーティスト名が放送禁止用語だったんですよね?(笑)

平山:そうです(笑)。「次の曲は村八分で『鼻からちょうちん』です」と紹介したら、ディレクターが飛んできて「まずい!」って言うんですよ。歌詞は全然OKなので「なんでだろう・・・?」と思ったら「バンド名が駄目なんだよ」と(笑)。ただ村八分を紹介したのは湊さんの番組じゃなかったですね。普通の音楽芸能班の番組で、湊さんだったらわかっていたと思うんですけどね。

−− その当時の湊さんは今とあまり変わらない印象ですか?

平山:まあ、昔から強気というか(笑)。でもすごくいいセンスをしているんですよね。若い人の心を掴むアーティストを見抜く。アジカンとかも早かったですね。すぐ電話かかってくるんですよ、「平山、アジカンってどういうバンドだ?」って。すごく面白い人です。

−− ここからは平山さんご自身についてお伺いしたいのですが、ご出身は東京の立川だそうですね。

平山:そうです。僕が子供の頃は立川の北側はわりと外国人タウンで、僕は南側だったんですが、家の近所に「ドミノ」というディスコがあって、そこに山口冨士夫のいたザ・ダイナマイツが出てたんですよね。もれてくる音をよく聴いてました。

−− どのようなご家庭だったんですか?

平山:父は塗装業をやっていたんですが、ものすごく音楽が好きな人でした。ただ、好きと言っても純邦楽が好きだったんですよね。都山流という尺八の先生をやっていて相当上手かったですね。

−− 尺八の先生だったんですか。

平山:本業は塗装業ですが、祖父の代に創業して、父はそういう意味では甘やかされて育ったというか、仕事は確立していたので、趣味に使う時間が多くて、うちによくお琴や三味線の方も来て演奏していました。その頃にものすごく腕のいい三味線弾きがいて、でも酒と女で身を持ち崩しちゃったんですが、月に1回ぐらい父がその人を呼ぶんですよね、飯食わせるために。その人はお酒飲むとダメになっちゃうので、飯食う前に父が三味線を弾かせるんです。その後、母の手料理を食べて酒を飲んで帰っていくんですが、その人にアーティストの原点を見たんですよね。音楽にはものすごく秀でているんだけど、ダメ人間というか(笑)。

−− (笑)。

平山:またそれを可愛がる父も面白いなと。一番印象に残っているのはその人と、東京で尺八の大会があると九州の人がよく泊まりにきていたんですが、鹿児島の人でものすごい上手な人がいて、普段父の尺八を聴き慣れているんですが、音量がその4倍くらい出るんです。繊細さみたいなところで言うと微妙なんですが、地域によって同じ尺八でもこんなに違うのかと思いましたね。