第137回 高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役

高橋 信彦
(株)ロードアンドスカイ 代表取締役
高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役社長
 今回の「Musicman's RELAY」は(株)ホットスタッフ・プロモーション 代表執行役員 会長兼社長 永田友純さんからのご紹介で、(株)ロードアンドスカイ代表取締役 高橋信彦さんのご登場です。東京で生まれるも、幼少期に引っ越した広島で音楽の楽しさに目覚めた高橋さん。以後人生を共に歩むバンド仲間や吉田拓郎との出会いを経て、バンド「愛奴」のベーシストとしてデビュー。バンド解散後は、浜田省吾をマネージャーとして現在まで支え、ロードアンドスカイ設立後はスピッツや斉藤和義などのマネージメント、レーベル運営、日本音楽制作者連盟等での活動と幅広く活動されてきた高橋さんにたっぷりお話を伺いました。
2016年4月21日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
高橋 信彦(たかはし・のぶひこ)
(株)ロードアンドスカイ 代表取締役

1952年 東京都生まれ、小学校から高校まで広島市で育つ。
71年 上智大学外国部学部西語学科入学
74年 吉田拓郎のツアーバンドとして春、秋のツアーに参加
75年 AIDOの一員としてアルバムデビュー
77年 秋より浜田省吾のマネージャーとしてホリプロ(カレイドスコープ)入社
83年 浜田のパーソナル・マネージメント・オフィス(株)ロードアンドスカイ設立
89年 (社)日本音楽制作者連盟 監事に就任 以降断続的に現在まで役員を歴任
91年 スピッツ・デビュー その後、ORIGA、区麗情他のマネージメントを手掛けるようになる。
98年 (株)ジェマテイカ・レコーズ設立。
01年 基本的に1アーティスト1マネージメント会社という考えの下、グループを分割する。
01年 著作権管理団体(株)Japan Rights Clearance 設立に参加、役員として現在に
至る。(2月1日より(株)NexTone)
05年 声優マネージメントおよびアニメ音楽制作の(株)ボイスアンドハートを(株)アニプレックスとの共同事業として設立。08年より映像および音楽制作会社に変更、グループ会社として再スタート。15年閉鎖。

1. 引っ越し先の広島で受けたカルチャーショック


−− 前回ご登場頂いたホットスタッフ・プロモーション 永田友純さんとはいつ頃出会われたんですか?

高橋:私はホリプロのカレイドスコープというセクションで、浜田省吾のマネージャーを始めたんですが、マネージャーとしてはまだ駆け出しで、なにをやったらいいか分からない、でも「ライブだけはやっていこう」という認識はあったんですね。

当時、浜田は今もサポートやってくれている町支寛二と2人でライブをやっていたんですが、とにかく貪欲にお客を掴んでいくようなライブをやっていて、私は「たくさんの人にこのライブを観せれば形になっていくだろう」と信じていたんです。まぁ、それだけしかできなかったんですけどね。例えば、プロモーションとか全然分かっていなかったですし、とにかくライブをやるにはどうしたらいいかということばかり考えていました。

それで各地の主催者、プロモーターの人に話を聞いてもらうために、昔ですから白盤を各地に送って、近場に関しては直接お会いして、というとこからスタートしました。最初はメロディーハウスにプロモートを依頼していたんですが、その後、ロックをメインにやっているプロモーターと言うことでホットスタッフを紹介してもらい、永田さんにお会いしたのが最初だと思います。

−− そうなりますと、永田さんとはかれこれ30年以上のお付き合いなんですね。

高橋:70年代終わりからですからね。当時ホットスタッフが得意だった神奈川のライブをまずお願いして、その後、山梨もお願いするようになりました。関東を2つ、3つに分けて、それそれのプロモーターにお願いするというのは珍しいやり方だったんですが、そういう形で仕事が始まりました。ですから、ビジネスだけで見るとそんなに濃い関係というわけではないんですよね。関東の中でも1部ですから。もちろん永田さんには今でも浜田をやってもらっていますが、ビジネス的にはそんなに大きなものでもないですし、普通に考えたらお互い「ワン・オブ・ゼム」なんですが、なんか馬が合うんですよね(笑)。

−− 波長が合うと。

高橋:彼はゆったりしているというかガツガツしてない、と言うと他の人がガツガツしているみたいですが(笑)、彼が持っているそういったゆったりとした雰囲気とか、安心感みたいなものに惹かれるんですよね。

永田さんがルルティモでおやりになっている大人向けのイベントがありますよね。ああいうのってすごく分かるんですよ。私もやりたいなと思いますし、センスや好みが近いんだと思います。だからそんなにたくさん話さなくても「ですよね」みたいな感じで話が進んじゃうし、居心地が良いんですよね。

−− ここからは高橋さんご自身のお話を伺っていきたいのですが、お生まれは東京だと伺っております。

高橋:52年5月8日、ゴーヤの日に東京で生まれました(笑)。その後、小学校入学直前に、父親の転勤で広島へ引っ越しました。それで小学校3年の夏休みに「東京に戻る」と言うことで、同級生に別れの挨拶をして、姉なんか餞別までもらったのに、その後、何が起こったのか分かりませんが「転勤が延長になりました」と(笑)。それで、9月になっておずおず学校へ行って、同級生は「あれ?」みたいなね(笑)。すごく恥ずかしかったのを覚えていますよ。結局そのまま広島にずっといることになったんですね。

−− 広島に引っ越されたときはどんな感じでしたか?

高橋:1958年頃ですから、まだ新幹線もないですし、全く広島のことを知らないままで行きましたから、とにかくビックリしました。引っ越し先は広島市内だったんですが、畑も田んぼも一杯あるし、とにかく広島弁が怖かったんです(笑)。子供が喋っていても、その言葉遣いが怖くて、最初は家に閉じこもっちゃったほどでした。うちの家族は東京から転勤してきた人たちが住むエリアに住んでいて、クラスにも東京組が2、3人いたんですよ。だから、結局そいつらとつるんでいたので、自慢じゃないですけど、広島弁は喋れないんですよ。

−− 広島弁は話されないんですか。

高橋:もちろん次第に慣れてきたんですが、広島弁自体を使わない仲間でいつも遊んでいましたし、家の中もそうだったので、ヒアリングのみでスピーキングはダメなんです(笑)。

−− 中学は公立校に行かれたんですか?

高橋:いえ、中高一貫の修道学園という私立の男子校に通っていました。後輩に吉川晃司君がいるんですが、彼が入っていた水球部やサッカー部、書道部が当時全国レベルの学校で、いわゆる藩校からの歴史がある名門校なんですが、なぜ修道に入ったかというと、他の学校は私立も含めて、みんな坊主にしなくてはいけなかったんですよ(笑)。でも、修道は大丈夫だったんです。それだけで修道を選んだんですよ(笑)。

−− 坊主頭は嫌ですよね(笑)

高橋:そう(笑)。何か妙に色気づいていて「坊主は嫌だな」と(笑)。だって小学校6年のときにビートルズを聴いてしまったし、そうしたら坊主なんかあり得ないじゃないですか(笑)。