第138回 田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー

田島 照久
グラフィック・デザイナー
田島 照久 氏 グラフィック・デザイナー
 今回の「Musicman's RELAY」は(株)ロードアンドスカイ 代表取締役 高橋信彦さんからのご紹介で、グラフィック・デザイナー 田島照久さんのご登場です。福岡出身の田島さんは多摩美術大学を卒業後、CBSソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)に入社され、矢沢永吉や五輪真弓、サンタナ、マイルス・デイヴィスなど多くのアーティストのジャケットデザインを担当。退社後、1年間のアメリカ生活を挟み、フリーとなって尾崎豊、浜田省吾を始めとする数多くのアーティストのジャケットデザインを担当。音楽関係以外でも、ポスターや広告、カレンダー、写真集、小説や文庫本の装丁など幅広い分野でご活躍される田島さんにご自身のキャリアから、デザインへの思い、テジタルへの取り組みと今後の展望までお話を伺いました。
2016年6月9日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
田島 照久(たじま・てるひさ)
グラフィック・デザイナー

1949年福岡県生まれ、多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。
CBSソニー(現SonyMusic Labels Inc.)デザイン室の勤務を経て渡米、1980年よりフリーランスとなり、1992年に現在のデザインプロダクション "THESEDAYS" を設立。
浜田省吾、尾崎豊をはじめとする多くのミュージシャンの撮影とパッケージカバーのアート・ディレクターを務める。
以降、仕事はエディトリアル、ポスター、広告、カレンダー、写真集、小説やコミックの装丁などグラフィック全般に及ぶ。
アニメーション関連のデザインも多く「攻殻機動隊」や「機動警察パトレイバー」などは企画の起ち上げ時から関わっている。
MACの創成期からコンピュータによるデジタルデザイン、デジタルフォトグラフィーに表現分野を拡げ、1994年に世界初のCGによる恐竜写真集 "DINOPIX" を発表、欧米でも出版される。
自身による著書として、CG写真集、アナログ写真集、デザイン本、小説などがある。
近年はPremierProを使った映像制作にも積極的に取り組んでいる。

1. 創作の原点は50年代アメリカのイメージ


−− 前回ご登場頂いたロードアンドスカイの高橋信彦さんとはいつ頃出会われたんですか?

田島:僕が入社したCBSソニー(現ソニー・ミュージックレーベルズ)から、高橋さんがメンバーだった愛奴が75年にデビューしました。そのときデザインは担当していなかったんですが、ハウスデザイナーとして印刷などのコーディネーションを担当しました。レコード会社からのデザイナーとして印刷会社とメンバーたちの間に入るんですが、そのときに高橋さんと出会いましたね。高橋さんは長髪でベースを弾いていて、とても印象に残っています。今思えば、愛奴はメンバー全員に強力な個性があった気がしますね。

−− 40年前ですね。

田島:遠い昔ですね(笑)。愛奴は東京のバンドにはない荒々しさがあって、みんな歌えて、いろんなタイプのサウンドを出していました。

−− 最初はミュージシャン/アーティストの高橋さんと出会ったんですね。

田島:はい。ただ、当時はあまり高橋さんと話をした記憶はないですね。新宿にあったスタジオに練習風景を見に行ったのは良く覚えていますが、バンドのみんなとも話した記憶がないです。高橋さんと次に関わるのは80年代、浜田省吾さんとの仕事を通じてで、そこからはずっと一緒にお仕事をさせてもらっています。

−− ここからは田島さんご自身のことお伺いしたいのですが、お生まれは福岡だそうですね。

田島:小学校3年まで福岡市東区の松原団地というところに住んでいました。松原団地は当時としては珍しい高層の市営団地で、父は九州製糖という会社に勤めていました。朝鮮戦争時に米軍の基地だった雁ノ巣飛行場が現在の海の中道にあって、そこから博多市内に遊びに行く米兵たちが、団地の前の国道3号線を走っていくのですが、シボレーやポンテアックといった彼らが乗っている流線型の車の形をたくさん覚えましたね。僕は小学生のときに見ていたその国道3号線の光景から大きな影響を受けていると思います。

−− 当時の子どもからみるとアメ車に乗った米兵は別世界の人間だったんじゃないですか?

田島:ええ。映画もそんなに観る機会がない時代に、アロハシャツの姿のライダーがハーレイに跨ってフォードの黄色いスポーツカーを追い越して行った場面は忘れられない思い出です。まさに『アメリカン・グラフィティ』の世界でした。僕の団地にはその雁ノ巣飛行場に勤めている方もたくさんいたんですが、その人から頂いたアイスクリームの味は今でも忘れないですね。家庭には冷凍設備なんかない時代ですから、お鍋にアイスクリームの大きな塊が入っているんですよ。それで「溶けるから早く食べて」と、日本にはまだアイスキャンディしかない時代でしたからとろける感触とその味は衝撃でした。

−− そういった経験はデザイナーとしての原点ですか?

田島:はい、僕の創作の原点にはアメリカナイズされたものが焼き付いている感じがしますね。

−− 小学生のころから絵やデザインは好きだったんですか?

田島:そうですね。後にプラモデルの箱絵で活躍された小松崎茂さんという画家に憧れていました。当時の少年誌には必ず小松崎さんが描かれた未来都市や戦艦などがカラーで載っているんですが、その絵をよく模写していましたね。その後、小学校3年の2学期に福岡県の筑後市というところに引っ越しました。

−− 生活は変化しましたか?

田島:もう、すぐにでも福岡市へ帰りたかったですね。母親に言わせると、毎日泣いていたらしいです。子どもながらに筑後市は田舎って感じがしたんですよね。周りには畑しかなかったですから、アメリカ的なものが遠のいて寂しくて仕方がなかったようです。ただ、いじめられたりはなくて、逆にあっという間に人気者になりました。それで、何故か放課後は、みんなに向かって創作話をしていました。神話を元にした作り話なんかで、先生に「はい田島くん、今日も何か面白い話してください」とか言われて、教壇に上がって話をするんです。毎回みんなが真剣に聞いていたのを覚えています。あの頃は転校生ってあまり居なかったですし、福岡市は大都会でしたから、こいつは何か面白い話を持ってそうだとか、そんな理由からだったと思います。そして小さいころから絵は得意で、転校後も、校内スケッチ大会ではいつも金賞で、ある日の全校生徒の朝礼のときに、3回呼ばれて、県大会と地区大会と校内の大会と合わせて一度に3枚の賞状をもらったことがありました。三回目はみんな笑ってました。

そして、中学は地元の学校に行ったんですが、ここはあまり居場所がない3年間でしたね。背が高かったのでバスケット部入ったものの馴染めなくて、勉学もあまりできなかったし、相変わらず小松崎茂の模写ばかりやっていました。それと同時に音楽にだんだんのめり込み始めるんです。

−− どのような音楽を聴かれていたんですか?

田島:当時の皆さんと一緒で、坂本九やザ・ピーナッツといった日本のポップスはテレビで楽しんでいたんですが、次第に洋楽に熱中しだして、中でもイギリスのクリフ・リチャードはお気に入りでした。初めて買ったシングル盤は彼の「ラッキー・リップス」という曲でした。僕がギターを始めるきっかけはシャドウズの影響なんですが、シャドウズはクリフ・リチャードのバックバンドで、クリフのヒット曲のほとんどはシャドウズが書いていたので、そういったところもかっこいいなと思っていたのですが、ビートルズが出てくると、もう、それまでの嗜好が一変しましたね。まだ最初のアルバムが出る前で、シングル盤の「プリーズ・プリーズ・ミー」を買ってB面の「アスク・ミー・ホワイ」と一緒に毎日、何回も何回も聴いてました。