第142回 与田 春生 氏 株式会社ユニバーソウル 代表取締役社長 / 音楽プロデューサー

与田 春生
株式会社ユニバーソウル 代表取締役社長 / 音楽プロデューサー
与田 春生 氏 株式会社ユニバーソウル 代表取締役社長 / 音楽プロデューサー
 今回の「Musicman's RELAY」は松崎澄夫さんからのご紹介で、株式会社ユニバーソウル 代表取締役社長 / 音楽プロデューサー与田春生さんのご登場です。お父上は数々の名曲を生みだしてきた作詞家の橋本淳さんという、音楽業界のど真ん中で育たれた与田さんは、BMGジャパン入社後、ディレクターとして着実に実績を積まれつつ、MISIAと出会い、『つつみ込むように…』で成功へ導きます。ユニバーソウル設立後も、MISIAに加え、AI、加藤ミリヤなど数多くのアーティストをプロデュースされています。今回はユニバーソウルのスタジオで、与田さんの特殊な幼少期から怒濤のBMGジャパン時代、MISIA『Everything』の制作秘話、そして今後のお話までたっぷり伺いました。
2016年10月24日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
与田 春生(よだ・はるお)
株式会社ユニバーソウル 代表取締役社長 / 音楽プロデューサー

作詞家、橋本淳を父に持ち、幼少より歌謡曲、ソウル、ロック、クラシックなど様々な音楽に触れ育つ。当時より自宅に出入りする作家、ディレクターに影響されクリエイティブな音楽の仕事を志す。詞曲のコンビにあった筒美京平氏に憧れるも、作家業の過酷さに不安を抱きレコード会社に就職。ライジングプロダクション平哲夫氏のもとで仕事を学び、1997年九州のオーディションで当時18歳の女の子をスカウト。MISIAと命名し、センセーショナルなヒットを生む。以後、10年間、MISIAを中心に、AI、加藤ミリヤ、リリコ、華原朋美などの女性シンガーを中心にプロデュース活動を展開している。これまでに制作したCDの売上げは、3000万枚に及ぶ。

1. 音楽業界の日常を肌で感じていた少年時代


−− 前回ご登場いただきました松崎澄夫さんとはどのようなご関係なんでしょうか?

与田:父親が作詞家をやっておりまして(※)、実家は千駄ヶ谷なんですが、ビクター音楽産業(現 ビクターエンタテインメント)とビクタースタジオのちょうど中間あたりに家があったんですね。それでビクターのディレクターさんとかは、会社とスタジオを歩いて往復していたんですが、中間に家があったので、ビクターの人が毎日のように来ていたんですね。
※作詞家・橋本淳氏。『ブルー・シャトウ』『ブルー・ライト・ヨコハマ』『亜麻色の髪の乙女』など名作多数。

−− 毎日のようにですか。

与田:学校から帰ってくると大抵レコード会社の人とか、作家の人、プロダクションの人がいて、打ち合わせとかをやっていましたね。僕はご飯を食べて宿題をやって自分の部屋に戻って、しばらくしてリビングに行くと麻雀が始まっているんですが、その中によく松崎さんがいたんですね(笑)。

−− (笑)。

与田:21時とか22時くらいになると「そろそろ寝なさい」と言われて寝るんですけど、朝学校に行くのに起きてリビングに行くとまだ麻雀が続いているんですよ(笑)。それで「いってらっしゃい」なんて言われて送り出されていました。

−− 朝まで麻雀が続いていたんですね(笑)。

与田:テストかなにかある日に寝坊しちゃって、母親と焦って準備していると、「寝坊したの? じゃあ送っていってあげるよ」って誰かが学校まで送ってくれたり、ひどかったのは運動会の日、入場行進で歩いていったら父兄の席の先頭で、父と麻雀していた4人が寝ているんですよ、その中に徹マン明けの松崎さんも(笑)。そういう環境でした。

−− 素晴らしい環境ですね(笑)。

与田:当時ビクターの飯田久彦さんとか、キャンディーズの作曲家の穂口雄右さんもよくいらっしゃって、そういった環境下で、音楽業界で働いている人の日常をなんとなく肌で感じていたのかもしれないですね。

−− そんな小さい頃からのお付き合いでしたか。お父さんのお友達ということですね。

与田:そうですね。松崎さんは常連でした(笑)。

−− その頃、松崎さんはまだミュージシャンだったんですか?

与田:いえ、渡辺プロダクションでキャンディーズやアン・ルイスさんとかをやられていたんじゃないですかね。僕が中学くらいの頃「バンドとかやっているみたいなのよ」って母親が松崎さんに言ったら、「じゃあ俺のギターあげるよ」ってエレキギターをいただいたりとか、今でもそうなんですけど、兄貴って感じですね。

−− 音楽業界の関係者は出入りしていたけども、音楽的とも言えない環境だった?

与田:どうでしょうね。みなさん打ち合わせと称して来るんですけど、ご飯を食べた後は麻雀になるのがいつものパターンでした。でも、仕事の話もしていましたけどね。内藤やす子さんの『弟よ』という曲があって、最初は「(イーグルスの)『ホテル・カリフォルニア』っぽくしよう」と話しているのが聞こえて、でき上がって『弟よ』を聴いてみたら「全然違うじゃん!」って思ったんですけど(笑)、よくよく聴いてみると、『ホテル・カリフォルニア』のエッセンスが入っているんですよ。そういうことがすごく面白いなと思って。魔法というか、ちょっとしたきっかけからアイデアを引き出していって、全く違うものを作っていく面白さというのは、混沌とした家庭の中に散らばっていたと思うんですよね。

−− お父様のプロフィールも拝見したんですが、知らない曲がないってくらい有名な曲をたくさん作られていますよね。松崎さんが所属していたアウト・キャストの『愛なき夜明け』も作詞はお父様ですね。

与田:僕が生まれた67年頃が一番のピークでしたね。例えば、松崎さんにしてもそうですし、ケイダッシュの川村会長もブルーコメッツのマネージメントをされていたので繋がりがあったり、あと、ヴィレッジ・シンガーズの小松さんも、その後ソニーのディレクターになってからは、内藤やす子さんやTUBEをやっていましたよね。グループ・サウンズ時代にアーティストだった方たちがレコード会社やプロダクションにたくさんいらっしゃるので、そういう意味で多少アドバンテージになっているところがあるのかなって思いますね。

ただ、二世っぽい感じでやるのも嫌だなと思っていたので、そういった環境に抵抗する気持ちもありました。もちろん仕事上では松崎さんを始め、みなさん遠くから見守ってくださっているのが非常にありがたいと言いますか、非常に恵まれた状態ではあると思いますね。