第144回 藤倉 尚 氏 ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)

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2017/03/02 (木) - 03:00
第144回 藤倉 尚 氏 ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)

 

藤倉 尚


ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)  

 

今回の「Musicman's RELAY」は伊東宏晃さんからのご紹介で、ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)藤倉 尚さんのご登場です。洋酒メーカーからポリドールへ転職された藤倉さんは、ビーグラム、ポリスター、アンリミテッドレコードと数多くのヒットを生み出したレーベルの現場で奔走。AIや徳永英明のヒットをきっかけにユニバーサルシグマを軌道に乗せ、K-POPブームやカバーアルバムなど新しいジャンルを確立。以後もナオト・インティライミやback number、クリス・ハート、米津玄師など多くの新人アーティストを送り出します。そして、EMIミュージック・ジャパンとの合併後、2014年に若干46歳で社長に就任されました。そんな藤倉さんにご自身のキャリアから、2016年、宇多田ヒカルの復活やRADWIMPSの大ヒットなど、様々な話題を振りまいたユニバーサル ミュージックの今後までお話を伺いました。

2017年3月1日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
藤倉 尚(ふじくら・なおし)
ユニバーサル ミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)


 


1967年12月11日生まれ
1991年4月 メルシャン株式会社 入社
1992年4月 ポリドール株式会社 (後にポリグラム株式会社に改名) 入社
1999年4月 マーキュリー・ミュージックエンタテインメント株式会社 (ポリグラム株式会社傘下の制作レーベル)
2000年7月 ユニバーサル ミュージック株式会社 (ポリグラム株式会社より改名)
2007年1月 ユニバーサル シグマ マネージング・ディレクター
2008年4月 執行役員ユニバーサル シグマ マネージング・ディレクター
2011年8月 ユニバーサル ミュージック合同会社 常務兼執行役員 ユニバーサルシグマ マネージング・ディレクター
       兼 NAYUTAWAVE RECORDS マネージング・ディレクター
2012年1月 副社長兼執行役員 邦楽統括 ユニバーサルシグマ マネージング・ディレクター
       兼 NAYUTAWAVE RECORDS マネージング・ディレクター 兼 SMU 統括ディレクター
2014年1月 社長兼最高経営責任者(CEO)


1. 最初は気まずかった伊東宏晃さんとの出会い
 

−− 前回ご登場頂いた伊東宏晃さんと最初に出会われたのはいつ頃ですか?

藤倉:伊東さんとの最初の出会いは私自身少し気まずかった思い出があります・・・。2007年の終わりくらいに、小室哲哉さんからユニバーサル ミュージックに「レーベルをやろう」とお話をいただき、お会いすることになりました。

小室さんはレーベルに関わる色々なアイディアを出されて、その流れで「今度KEIKO(globe)をやってくれない?」というお話をいただきました。話を進めるにあたって、エイベックスさんにこちらからもきちんと話を通した上で、過去の曲も貸していただきたいなと思い、伊東さんに直接お話する機会を伺っていました。しかし、伊東さんやチームの皆さんが一生懸命KEIKOをやっていたときに、人づてに「ユニバーサルの藤倉がやる」と伝わっていたようで、「話を聞いて困惑した」というお話を後日、伊東さんから直接お聞きしました。

伊東さんは音楽に対して情熱を持った方で、お互い波長があったこともあり、その後、色々話していくうちに伊東さんからも「頑張ってね」という感じで応援してくださり、KEIKOさんのアルバムとシングルをユニバーサルからリリースしました。

−− 最初はそんな出会いだったんですね・・・。

藤倉:ええ。そのあとクリス・ハートとの契約をユニバーサルで進めている途中に、伊東さんからも「クリス・ハートが『home』を歌っているのに感動した。ぜひうちでやらせてほしい!」と手が挙がっているという話を聞きました。「これは急いで話を進めないと伊東さんにとられちゃう・・・」と思った記憶があります(笑)。

−− (笑)。

藤倉:Da-iCEや木山裕策をユニバーサルで担当していたり、ありがたいことに伊東さんとはその後もご縁が続いており、引き続き一緒に仕事をさせて頂いています。

−− ここからは藤倉さんご自身のことをお伺いしたいのですが、ご出身はどちらですか?

藤倉:生まれは東京の花小金井ですが、生まれてすぐに父の仕事の関係で千葉の稲毛に引っ越しました。それで小学校3年生くらいまで稲毛にいて、また父の仕事の転勤で、今度は神奈川県の戸塚に引っ越しました。

−− お父様はどのようなお仕事をされていたんですか?

藤倉:セメント会社に勤めていました。小学校5年のときにまた東京の東十条に引っ越しまして、小学生のときに3回転校しています。

−− 首都圏を転々と・・・藤倉さんはどんな少年だったんですか?

藤倉:ひたすら野球に打ち込んでいましたね。リトルリーグでピッチャーとセカンドをやっていました。エースがいて、自分はセカンドとピッチャーを併用という感じでした。順調にいけば野球一直線という感じだったと思います。

−− ちなみに伊東さんも高校まで野球をやっていたとお伺いしました。

藤倉:高校まで野球ができたのは素晴らしいですよ。私の場合、その後転校先の学校の健康診断で「心臓に雑音がある」みたいなことを言われました。大学病院へ精密検査に行き、医者からは「はっきり分からないけど、心臓に不具合があるかもしれないから、激しい運動はやらない方がいい」と言われました。自覚症状もなかったのですが、親から「激しいスポーツはやめて欲しい」と言われ、野球チームは泣く泣く辞めることになりました。ただ、スポーツは大好きだったので、親を言いくるめて卓球、テニス、スキーとか色々やりました。でもあれはなんだったのかっていうくらいそれから何もなくて・・・(笑)。

−− 誤診だったんでしょうか・・・。

藤倉:どうなんでしょうね。でも、そのおかげで音楽との接点ができるきっかけにもなったような気がします。

 

2. 父にムード歌謡を教え込まれた少年時代

 


−− 藤倉さんの音楽との出会いはいつ頃ですか?

藤倉:実は小学校3年生くらいで父にムード歌謡を教え込まれたんですよ。関内のスナックとかで(笑)。今考えると絶対ダメだと思うんですが、当時は「ご飯食べよう」といって連れていかれて、綺麗なお姉さんが周りにいて、そういうなかで父が歌っていた歌、例えば、フランク永井の「おまえに」とか印象に残っていますね。。

−− 小学校3年生でフランク永井ですか(笑)。

藤倉:そうです(笑)。父がそれをカラオケで歌って練習していて。フランク永井とか、他にはクールファイブとか、GSのブルーコメッツとか、そういう世界でしたね。

−− 洋楽はどうですか?

藤倉:私は弊社歴代の社長の中で、最も英語が得意じゃない社長だと言われているんですが(笑)、実は海外との関係は深くて、父の妹がアメリカで現地の方と結婚していましたので、アメリカに行ったり、叔母と叔父が日本に来たりしていました。叔父は日本語が全くできなかったんですが、日本に来るたびにお土産でLPを持ってきてくれたんです。彼が持ってきてくれるLPが洋楽との出会いでしたね。

−− お土産のLPはどんなアーティストの作品でしたか?

藤倉:一番最初に持ってきたのがイーグルスの『ホテルカリフォルニア』のLPだったことをよく覚えています。他にはカーペンターズやビリー・ジョエルなどアメリカのアーティストがほとんどでしたのでそれらの作品には影響を受けましたね。叔父は警察官だったんですが、弟がカントリー歌手だったらしく、その弟さんのLPも持ってきてくれたこともありました。

−− 藤倉さんご自身でバンドを組まれたりはされなかったんですか?

藤倉:高校に入学する頃はポリスが好きだったので、「ベーシスト兼ボーカリストとかかっこいいな」と思って、高校のときに友達とバンドに参加したりしましたが、これが全然駄目で・・・演奏は全く駄目ですね。

−− 歌はどうですか?

藤倉:歌!(笑) うーん・・・とてもOKとは言えないですね(笑)。

−− 高校時代の音楽活動というとそのバンド活動がメインだったのでしょうか?

藤倉:そうですね・・・あとは、恥ずかしいですが、ディスコには頻繁に行ってました(笑)。当時はディスコ全盛期で、新宿の東亜会館のBIBAやGB、歌舞伎町のニューヨーク・ニューヨークやゼノンとか、そういうところに大学生のような顔をしてまざっていましたね。そこでかなり80年代の音楽に影響を受けたんだと思います。

−− 当時、最先端をいっている少年だったわけですね。

藤倉:それがかっこいいと勘違いしていたんでしょうね。ご多分に漏れず女の子と仲良くなりたいという非常に不純な動機があったと思います(笑)。

−− (笑) 学業の方はどうでしたか?

藤倉:学業はあまり良くなかったです。もう少し高校時代に勉強しておけば良かったと本気で後悔しています(笑)。高校生は私服の学校だったので雀荘に行ったり、ディスコに行ったり、全然勉強していなかったですね。野球を続けていたら違ったのかもしれませんが、そこからずいぶん軽いほうへいってしまったなという印象です。

−− 大学ではどのような生活をされていたんですか?

藤倉:大学はテニスやスキーですね。冬はスキー場でバイトもしていて、スキーはある程度できるようになりましたが、バイト代はほとんどそこで使っちゃう感じでした。

−− テニス&スキーというと当時の典型的なシティボーイですよね(笑)。

藤倉:最悪ですよね(笑)。もうちょっと深みのあることを言いたいんですけど(笑)。

 

3. 「お酒と音楽は人を楽しませる」〜酒造メーカーからレコードメーカーへ転身

 


−− 当時の就職は、いわゆるバブル期にあたるんでしょうか?

藤倉:そうですね。大学時代はアルバイトをずっとしていたので、就職のことを考えるタイミングが遅くて、「自分にとって何が大切なんだろう?」とか「なにしたらいいんだろう?」ということを真剣に考えたのが4年生のときでした。そのときに「人を楽しませる仕事がしたい」ということを漠然と考えていて、当時飲食店でのアルバイトが非常に楽しかったこともあり、「お酒で人を楽しませることができる」と考えてお酒の会社を選びました。

−− 「お酒は人を楽しませる」ですか。

藤倉:ええ。居酒屋とかバーでバイトをしていたときに、お客様同士が楽しく打ち解けたりみたいな様子をたくさん見ていたので、楽しい時間を過ごすための手助けを自分の仕事にできたらいいな思ったんですよね。焼き鳥屋さんでアルバイトをしていたのですが、お店のオーナーと話していたときに、「ビールとだけではなくてワインと焼き鳥って本当に合うよね」という話になって、お店のメニューに提案したことがあったんです。とても好評だったこともあり、ワインブームが来る前だったのですが「ワインって今後もっと普及するだろうな」ということを実感して、ワインの会社ばかり受けた記憶があります。

−− 将来的に自分で飲食店をやりたいと思っていらしたんですか?

藤倉:そういう気持ちもあったと思いますね。卒業後は、洋酒メーカー(当時)に入社しました。初任地が福岡になって、その中でも田舎の方をまわっていたんです。ワインやウイスキー、焼酎を売る、といっても人があまり集まらないんですね。お酒を売るためのイベント会場に新人の歌手の人たちに来ていただいたりしたのですが、その時に「楽しそうな仕事だな」と思ったのが、音楽業界との最初の出会いというか接点でした。

−− それまでは音楽を仕事にしようと思ったことは一度もなかったんですか?

藤倉:人を楽しませる仕事の選択肢として音楽も入っていたので、レコード会社も受けたのですが、その時は残念ながら縁がありませんでした。

−− 当時レコード会社は人気があったんですよね。

藤倉:ありましたね。もの凄い倍率だったと思います。で、週末にお酒の販売促進会を手伝っていたときに、レコード会社で働いていた人達の仕事が輝いて見えて、「楽しそうだな」という想いが頭の中でどんどん膨らんでいった感じでしたね。

−− どうせやるなら音楽やったほうが楽しそうだなと。

藤倉:そうですね。改めて音楽業界で働いてみたいなと。それで当時の上司がいずれは東京に戻りたいという方だったので、東京の情報も色々あって、そこでレコード会社の求人を見つけて、応募しました。

−− 紹介とかではなく、もう一度受け直したんですね。

藤倉:受け直しましたね。休みが無かったので、東京に行くのも何かにかこつけて。でも寮母さんにはなんとなくばれていましたね。東京に行ったあとに何通か手紙が届いているので「辞めちゃうのもったいないよ」って言われて。

−− 試験のときのことは覚えていますか?

藤倉:試験は面接で、「音楽の力で世の中を変えられる」みたいなことを言った気はします(苦笑)。今振り返ると恥ずかしいですが「自分は今お酒の仕事をしているけれども、お酒と音楽の力で人は幸せになる」みたいなことを。全然具体性はないんですけどね。

−− そのとき藤倉さんの他にもその採用試験を受けていた方は結構いたんですか?

藤倉:いましたね。というのも、当時まだ第二新卒とかはなくて、新卒と一緒という感じでした。

−− そのときは他の会社の試験も受けたんですか?

藤倉:ソニーミュージックとポニーキャニオン、ポリドールを受ける予定だったんですが、一番最初に受けたポリドールに内定したのでお世話になることに決めました。

 

4. ビーグラム、ポリスター、アンリミテッドで大ヒットを目の当たりに

 


−− ポリドールに入社されたときの部署はなんだったんですか?

藤倉:当初「採用は営業だけ」という話だったので、最初は営業所に配属になり、そこで2年間営業をやりました。同じ営業所には現副社長の喜本もいました。

−− 店まわりのセールスなどされていたんですか?

藤倉:そうですね。大体、町田や小田原を中心に神奈川県・静岡県の店をまわっていました。その後、営業所ではなく本社で販促の仕事になりました。今でいう受託業務ですね。社名がポリグラムになり、当時は、ビーイングと一緒にビーグラムという会社を作って、ZARDやWANDS、大黒摩季、DEENがいたレーベルの販促担当になりました。

ポリグラムの社員ですが、ビーイングやビーグラムの事務所によく行っていたので、自社の雰囲気とは全く違う空気を味わっていましたね。ビーグラムは“ヒットを出す”というところに執着心を持っており、実際にヒットがどんどん出ていて、すごく刺激を受けました。

−− その時代はビーイングの黄金時代ですよね。

藤倉:そうですね。その後、今度はポリスターの販促担当になりました。当時のポリスターは堀内孝雄や高山厳のような演歌や歌謡曲の他に、フリッパーズ・ギターやカヒミ・カリィ、カジヒデキなど渋谷系の作品を多く手掛けていましたので、そういう意味では販促担当としてはすごく幅広いやり方を経験しました。お店との地道な取り組みを重ねる営業と、お店まわりからムーブメントを作っていく作品を同時にやれましたからね。これまでと全く違うやり方でしたから、良い経験ができたなと思いますね。

その流れでアンリミテッドレコードとGLAYをやることになりました。GLAYは本当にお店まわりを大事にしていたんですよね。シングル「HOWEVER」の大ヒットやベストアルバム「review」がその頃500万枚とか売れていた頃です。『Winter, again』くらいまでを一緒にやらせてもらいました。自分が代表の立場になった今考えると、リーダーのタイプも十人十色だと思います。

−− その時代時代の先端の、売れる音楽を作っていた人達と仕事をされてきたわけですね。

藤倉:ありがたいことに。当時のポリドールはとても洋楽が強い会社で、今と比べると比較的のんびりしていたような気がします。クラシックもジャズも素晴らしいカタログがあって。その一方ビーグラム、ポリスター、アンリミテッドレコードはカタログがたくさんあるわけではないので、ヒットを出さないといけなかったですし、もう「ヒットを出すのが世の中を幸せにすることだ」みたいなメッセージでやっていたというのが記憶としてありますね。

−− 目の前で巨大なヒットが量産されていくその場にいるというのは勉強になるんでしょうね。

藤倉:今、改めてその凄さを実感しますね。当時は「少しでも役に立とう」ということで精一杯だったと思います。その後、GLAYの移籍に伴ってチームが解散したんですね。99年にマーキュリーへ行きました。そこで宣伝担当をはじめて、松田聖子やラジオ局・テレビ局を担当しました。そして、2000年になり、キティとマーキュリーが合併することになります。全く違う色のレーベルが一緒になって、そのタイミングで私は本部長になりました。

−− 全く違うカラーのレーベルを統括する立場になられたわけですね。

藤倉:アーティストもそうですが、社員やスタッフも全く違っていて、EMIとユニバーサルの合併よりも大変だった気がします(笑)。当時アーティスト担当や宣伝や制作など全部を束ねる立場にあったので、お互いのいいところ、例えばマーキュリーだったら宣伝が強くて、キティは制作が強かったというイメージがありましたから、どうやったら良いかたちになるかと考えていましたね。ただ、まだ30代前半でしたので力不足な面もあったかと思います。



5. ユニバーサルシグマを消滅危機から救った連続ヒット

 


−− 藤倉さんは92年に音楽業界にいらっしゃってますから、「黄金の90年代」を駆け抜けたって感じですよね。

藤倉:そう言うとかっこいいですけどね(笑)。でも、先輩達のやっていたことが結果として出せるようになったのは、その後だと思うんですね。キティ・マーキュリーの後に、ポリドールからアイランドというレーベルが独立しました。同時期にデフ・ジャム・ジャパンというレーベルが洋楽の中に誕生しました。ヒップホップやR&Bのアーティストがいたのですが、キティ・マーキュリー、アイランド、デフ・ジャム・ジャパンの3レーベルからヒットが出なかったので、また一緒になることになり、2004年にユニバーサルシグマという組織になります。

−− その時代って傍から見ているとよく分からなかったんですよね。何がどうなっているのか。

藤倉:そうでしょうね。ヒットが出ていなかったので、外からはよく分からなかったと思います。ここもスタッフの個性が全く違うチームだったんですが、それぞれ「ヒットを出さないと、このレーベルは続かないよね」という共通の想いがあったと思います。

−− その後ユニバーサルシグマはどのようになっていくんですか?

藤倉:ユニバーサルシグマが2004年に始まって、2005年になっても相変わらずヒットが出ない状態になったときに、2005年がこのまま終わると、ユニバーサルシグマは消滅してしまうという話も出ているということを聞いたのが2005年の3月でした。

で、そのときのリリース予定の作品を見て、「今からでもヒットを狙えるアーティストの楽曲」の筆頭がAIの『Story』だったんです。『Story』は、レーベルとして大きくヒットさせようとしていた自信の一曲でした。ノンタイアップで2005年5月にリリースしたのですが、発売後に話題を集め、タイアップも後からつきました。その結果、当時50万枚のヒットで300万近いダウンロードもあり、夏に出たアルバムも50万枚のヒットになりました。

そこから流れが変わって、9月には徳永英明の『VOCALIST』が出ました。徳永はユニバーサルに移って来てからしばらく休養していました。本人含めてファンの方が望んでいるものを改めて考えた作品が女性の歌で選曲した『VOCALIST』です。これがミリオンにいくような動きが起きたんですね。

新人では、ウエンツ瑛士と小池徹平のWaTと契約しました。彼らは新人にもかかわらず、いきなり30万枚のヒットになりその年の紅白にも出場しましたし、TERIYAKI BOYZも同時期にヒットしました。

−− 土壇場でヒットが立て続けに生まれたんですね。

藤倉:はい、まさに。「もうこのままだとおしまい」と言われていましたが、2005年のヒット作品でシグマは生き返りました。

−− 大逆転ですね。

藤倉:当時はユニバーサルJと、ユニバーサルシグマの2つのレーベルでした。よく冗談っぽく「ユニバーサルJが一軍、シグマが二軍」という言われ方をしていましたが、私たちは心の中で「絶対やってやろう!」と思っていました(笑)。ユニバーサルJはスタッフも一流で、アーティストも福山雅治を筆頭に素晴らしいアーティストがたくさんいます。シグマはスタッフも若かったですし、まだヒットが出ていないアーティストが多かったのですが、そこでヒットが出せたというのが、シグマが花開くきっかけになったと思います。

 

6. 自分たちが心から信じた新人としかサインしない

 


−− 2005年のヒットはスタッフの方々にも自信になったんじゃないですか?

藤倉:チームとしてすごく自信になったと思います。2006年、2007年は『VOCALIST 2』や『VOCALIST 3』のミリオンヒットはありましたし、エレファントカシマシやCharaなど移籍を含めレーベルとしても充実してきました。その一方、新人のヒットが足りてないという状況に危機感は常にありました。ユニバーサルJは青山テルマやGReeeeNなどものすごく良い新人のヒットが出ていましたからね。

2007年にシグマのトップになった時点で「このままレーベルをきちんと存続できるのか?」と自問自答したときに、確固としたレーベルポリシーが必要だと考えました。今5人や10人の前でライブをやっているアーティストだとしても、「東京ドームでライブがやれる」「紅白歌合戦に出られる」「100万枚売れる」未来が描けるアーティストと一緒にやろうと決めました。軋轢が生じることもあると思いましたが、それを決めたのが2009年です。

−− そのレーベルポリシーにしたらどのようなことが起こりましたか?

藤倉:ナオト・インティライミやback numberなど今の弊社を支えてくれるアーティストと契約したのもその時でした。KARAもそうだったと思います。K-POPは、エイベックスさんがBoAや東方神起で2005年くらいに韓流ブームをつくりました。その後、2010年後半から2011年くらいにアーティストの数も増え、認知度もぐっと広がりましたよね。KARAに関しては担当者から「良いアーティストが韓国にいるので見に行ってほしい」という話があり、実際にファンミーティングやコンサートでのファンの熱気を目の当たりにしました。信頼している仲間が良いと思ったものが軒並み結果を出してくれたというのが2010年、2011年だったと思います。

−− そして2013年、EMIミュージック・ジャパンと合併になりますね。これは衝撃的なニュースでしたが、社内ではどのような感じでしたか?

藤倉:当時の私の立場は邦楽全体の統括でした。ヒットを出したり、ユニバーサルの邦楽レーベルをもっと魅力的にすることを考えていましたので、合併したとはいえ、ライバルでした。当時、EMIには良いアーティストがたくさんいましたし、優秀なA&Rもいましたから「負けられない」と思ったのを覚えています。

−− 合併したという実感はあまりなかった?

藤倉:2014年に会社の代表になるんですが、そこからが本当の意味で融合のスタートだったと思います。2013年の合併当初は、マネジメントや組織などインフラ面での統合などが進められていました。私が社長になったタイミングでスタッフレベルでの異動や業務の見直しなどを本格的にスタートさせました。

−− 今はもう違和感などはないですか?

藤倉:大きい会社の合併は50年経っても一緒にならないとかって本で読みましたが(笑)、去年のDREAMS COME TRUEのアルバムリリースが大きかったと思います。ソニーミュージックでデビューして、EMIを経て、ユニバーサルに来たアーティストですが、2015年にベストアルバム『DREAMS COME TRUE THE BEST! 私のドリカム』は110万枚を売り上げました。レーベルを越え全社でミリオンセールスに向け取組み、結果も出て、会社が一つになれたという実感がありました。

−− 当初はカルチャーの違いは感じましたか?

藤倉:逆に「外から見たらどうですか?」とお伺いしたいところです(笑)。EMIは特に邦楽は良質な音楽をじっくり売っていく。ロックバンドもいいアーティストがたくさんいます。ただ宣伝力やタイアップ力はもう少しかなという印象がありました。実際にEMIのスタッフからもそのような話を聞きました。一方ユニバーサルは当時のGReeeeNやナオト・インティライミなど、サインした新人を1年目から大きく伸ばしていこうという考え方があり、そこが違いましたね。一緒になった後は、お互いの良いところはどんどん見習って、私を含めた経営陣は、足りないところを補完したいという考え方を浸透させることに尽力し、そこは今も継続中ですね。

 

7. 確実に一緒に進める優秀な人たちがユニバーサルにはたくさんいる

 


−− キティやマーキュリー、ポリドールなどが一緒になり、どんどん進化し、そしてEMIと合併するという、他のレコード会社の人はなかなか経験したことがないことを藤倉さんは経験されていますよね。しかも、各社の中でも一番お若い年代としてのトップに就任されたのがすごいなと思って。藤倉さんはやはり有能な方なんでしょうね。

藤倉:いやいや(笑)。ユニバーサルミュージックは国内外どちらでも音楽業界の変革の歴史と重なることが多かったと思いますが、ただ流れに身を任せていればやれるほど、簡単じゃなくて、やっぱり優秀な人と言いますか、前向きな人が欠かせません。「上手くやって残っていよう」みたいな感じでは多分無理でしょう。私が社長に指名された意味というのは、「もっと邦楽のヒットを大きくして、発展させてもらいたい」という本社からのメッセージだったと思うんです。一緒に進める優秀な人たちがユニバーサルにはたくさんいますし、その人たちの力があるからこそヒットも出て、良い人たちも集まってきてくれているんだろうなと思うんです。手前味噌ですが、本当にそう思っています。

−− 優秀な社員の方々あってこそだと。

藤倉:そうです。代表になったときに、まずは本社にも日本の状況を正確に理解してもらわなくては、と思っていました。もちろんヒットを出すことは大事ですが、決して綺麗事を言うわけではなく、「大切なものは何か」と「日本で起きていることは何なのか?」ということをきちんと理解してもらうために、定期的に説明しています。良い悪いではなくこれまでは本当に「ヒットがすべて」でアーメット・アーティガンじゃないですが、1つのヒットでレコード会社の問題がすべて解消できた時代でした。でも、時代や環境も大きく変わってそれだけでは解消できない問題が浮かび上がってきて、「こういうことをしたい」とか「こういうように変えたい」とか、大事な話は海外のメンバーとも直接話し合う機会を増やしています。

−− その地道な話し合いが実を結んでいる?

藤倉:そうだったら嬉しいですけどね。今、新人からベテランまでアーティストのラインナップは充実しています。RADWIMPSはデビューからさらに10年経って大ヒットしましたし、宇多田ヒカルも8年半ぶりに出したアルバムも国内だけではなく海外でも高い評価を頂きました。松任谷由実は女性アーティスト歴代最年長でオリジナルアルバムで1位を獲得しました。新人から長く活躍していただいている方までアーティストの充実はひとえにスタッフのおかげです。アーティスト同様、スタッフみんながすごくキラキラしていますし、もし私のことを褒めてくれているのだとしたら(笑)、それは現場で頑張っているスタッフのおかげです。

−− 2016年はついにSpotifyも始まり、ストリーミングが本格化した年かと思うんですが、パッケージの今後も含めて、来年以降、音楽を取り巻く環境はどうなるとお考えですか?

藤倉:パッケージに関して、私は急激に下落することはないと思っています。私もアメリカはもちろん海外の状況はいつも気にしています。北欧だけではなく比較的フィジカルの比率の高かったドイツやフランスでもデジタルの比率が上がっていますし、ストリーミングサービスは日本を含めて世界的に成長していますよね。

−− 韓国もそうですよね。

藤倉:そうですね。ただ、日本は少し別かなと思っているんです。海外からはいつも「もっとデジタルにシフトしろ」と言われてきましたが、私は本当に両輪だと思っています。もちろんサブスクリプションサービスも使うでしょうけども、本当に欲しい作品は、年代を問わずCDやアナログ盤などフィジカルの商品を購入していただける機会はあると思います。もちろん、フィジカルの魅力を若い世代にどうやって伝えていくかという課題もあると思います。フィジカルやダウンロードも含めデジタル等、音楽を聴くあらゆる機会が増えれば良いなと思っています。

 

8. 「本当に成し遂げる」と思わなければ成し遂げられない〜日本人アーティストのビルボードNo.1を目指して

 


−− 2016年のユニバーサルは先ほどお話に出ました宇多田ヒカルの復活やRADWIMPSのヒットなど、インパクトがありましたね。

藤倉:2015年のドリカムがミリオン行った時点から、「宇多田ヒカルのアルバムも絶対にミリオン売ろう」と話し合っていました。作品の力はもちろんですが、アーティストやマネジメント、そして制作チームはもちろん、全社で一致団結してやったので、今回の結果は自信になりました。やはり作品の良さが全てだったと思います。

−− この2016年にミリオンの話題が聞こえてくるは嬉しいですよね。

藤倉:私自身ミリオンセールスを経験していますが、どれもチームで成し遂げたという実感です。時代は変わっても「100万」という数字にはこだわりたいと思っています。ドリカムのベストが出るときの当初の予測って、20万枚くらいだったんです。それでも社内でもそんなに悪い数字ではない、という見解でした。中村正人さんの「出すんだったらミリオン目指さないと意味がない」という言葉に改めて目が覚める想いでした。新しいファンをどう作る努力をしないで、アーティスト、事務所、メジャーレーベルの意味はないんじゃないか? 等作品のお話に加えて、他にも色々な話をさせていただきました。

−− RADWIMPS『君の名は。』も素晴らしい作品ですね。

藤倉:ええ。『君の名は。』はボーカル曲は4曲のみです。それで、後は全部インストで、普通だと”『君の名は。』サウンドトラック”ですよね。でも、作り手同士の強い信頼関係のもとで「RADWIMPS『君の名は。』」として世の中に届けることになりました。お陰さまでその後リリースしたオリジナルアルバム『人間開花』も『君の名は。』同様に大変好調です。

−− 宇多田ヒカルとRADWIMPSの作品の質も伴った好セールスは、最近のモヤモヤムードを吹き飛ばしてくれている感じがします。

藤倉:中村正人さんは宇多田ヒカルのアルバムをすごく応援してくれていて、「こういう良いものが世の中に伝わらなきゃいけない。伝えるべきだ」とおっしゃっていました。本当に色々なところで中村さんがプロモーションしてくれている感じなんです(笑)。

−− この時代にまだこれだけのヒットって出るんですね。

藤倉:良質な作品を届けることと、その作品の素晴らしさをきちんと伝えることを諦めずにやらなくてはいけないなと改めて思いました。

−− また、社長就任時にお話を伺ったときに藤倉さんは「もう一度日本人アーティストでビルボードNo.1を獲りたい」とおっしゃっていたのが、とても印象的だったんですが、その気持ちは今もおありですか?

藤倉:もちろんです。さきほどのミリオン達成の話と同じですが、「本当に成し遂げる」と思わなければ成し遂げられないと思うんです。夢で宝くじを買っているわけじゃなくて、本当にやろうと思っています。

偶発的に起きる可能性はあるかもしれないんですが、やっぱり永続的にNo.1を勝ち取ることは難しいなとも思っています。それに挑戦してくれているのが布袋寅泰やMIYAVIで、海外に拠点を置いて挑戦してくれています。VAMPSやPerfumeは、海外公演の頻度を上げて海外マーケットに挑戦しています。ユニバーサルは「必ず日本のアーティストでトップを取る」ということを信じて、そういった挑戦を後押ししていきたいと思っています。

−− 日本独自の文化という捉えられ方じゃなくて、音楽のど真ん中、メインストリームでそれをやってくれる人が出てくれたらいいですよね。

藤倉:はい。本当に成し遂げられると信じています。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。藤倉さんの益々のご活躍をお祈りしております。m.gif

藤倉 尚 氏 ユニバーサルミュージック合同会社 社長兼最高経営責任者(CEO)